2008年05月09日
アニメがらみで「猫」と「記憶」の話。
先シーズンに放映されていたアニメの、『ef - a tale of memories』
ef - a tale of memories 先日書いた「true tears」と同様に、学園を舞台とした恋愛ものだった。キャラクターの設定で、特異な状況が背景としてあるのも、「true tears」に似ていた。
また、「true tears」で「絵本」が重要な役割を果たしたように、『ef - a tale of memories』では、作中のキャラクターが書く「小説」が心理的な情景を象徴するものとなっていた。
こうした「劇中劇」的な手法は、わりとよく使われる。うまく使えば、物語の伏線として効果的になる。
『ef - a tale of memories』の原作はPCゲームということだが、ゲームの方は18禁のソフトなエロゲーに属する。しかし、アニメの方はエッチな要素は抑えられ、純愛ものに近いストーリー展開だった。
物語は、2人の少年……紘(ひろ)と蓮治(れんじ)を軸とした、2つの視点から2つの展開がされていく。キャラクターの接点はあるが、2つの物語が同時進行していく形だ。
その蓮治サイドに登場する少女「千尋」が、この作品のイメージを決定づけているといってもいいだろう。
千尋は新しい記憶が13時間しか持続しないという設定になっていた。
半日前の記憶は消えてしまうので、日記帳に記憶を書き留めていた。13時間後にリセットされると、記憶障害になる以前の状態に戻ってしまう。
半日前、1日前、1週間前に自分がなにをしていたか?……というのは、じつのところ厳密に記憶していることは希だろう。
記憶は機械的な記録メディアのように、情報を正確に記録しているわけではない。ある手掛かりから関連するイメージを、思い出したときに再構築するのが記憶だ。つまり、思い出すたびにイメージを書き直しているわけで、時間の経過とともに記憶は変化していく。
人間は「過去」「現在」「未来」という、時間の時系列を認識できるので、記憶を時系列で整理して覚えていられる。
だが、猫にはそんな能力というか意識はない。
時系列で考えるというのは、論理的な思考である。猫はそんな思考はしない。
「猫は三歩歩いたら忘れる」ともいうが、猫たちにも記憶はある。ただ、その記憶に「時間」の概念がないだけだ。
猫たちの生きる世界は、「現在」だけの世界だろう。
記憶はあっても、それが「過去」という認識はしていないはずだ。あることを覚えていても、それは現在のその時点での有効な知恵としての記憶であり、過去という引き出しから出してきたものではない。
昨日のことは覚えていなくても、水がどこにあるか、トイレがどこにあるか、食べ物がどこにあるかはわかる。
私たちのことは覚えていて、帰宅すれば喜んで迎えてくれる。しかし、昨日いっしょに遊んだことなどは覚えてはいないだろう。猫たちにとって、私たちはいっしょに遊んでくれる相手であり、いっしょに寝る相手であり、ご飯をくれる相手であり……と、過去の経験から学んだ記憶が、今現在の行動に反映されているにすぎない。時系列で整理される記憶ではなく、ごちゃごちゃになった記憶が必要なときに行動を決定をする条件になっている……ということだと思う。
人は「整理された記憶」によって、人格を形成したり、周囲との関わりを認識する。それは継続される社会性を求めているからだ。
猫のように生きるのであれば、新しい記憶が13時間しか保たなくても問題はない。
千尋が記憶が消えてしまうことに絶望を感じてしまうのは、人であるがゆえの社会性を必要としているからだ。
『ef - a tale of memories』の物語は、救いのある結末で終える。
千尋の記憶障害が治ることはないかもしれないが、彼女の存在は観た人たちの記憶に鮮明に刻まれることは確かだろう。
先シーズンに放映されていたアニメの、『ef - a tale of memories』
ef - a tale of memories 先日書いた「true tears」と同様に、学園を舞台とした恋愛ものだった。キャラクターの設定で、特異な状況が背景としてあるのも、「true tears」に似ていた。また、「true tears」で「絵本」が重要な役割を果たしたように、『ef - a tale of memories』では、作中のキャラクターが書く「小説」が心理的な情景を象徴するものとなっていた。
こうした「劇中劇」的な手法は、わりとよく使われる。うまく使えば、物語の伏線として効果的になる。
『ef - a tale of memories』の原作はPCゲームということだが、ゲームの方は18禁のソフトなエロゲーに属する。しかし、アニメの方はエッチな要素は抑えられ、純愛ものに近いストーリー展開だった。
物語は、2人の少年……紘(ひろ)と蓮治(れんじ)を軸とした、2つの視点から2つの展開がされていく。キャラクターの接点はあるが、2つの物語が同時進行していく形だ。
その蓮治サイドに登場する少女「千尋」が、この作品のイメージを決定づけているといってもいいだろう。
千尋は新しい記憶が13時間しか持続しないという設定になっていた。
半日前の記憶は消えてしまうので、日記帳に記憶を書き留めていた。13時間後にリセットされると、記憶障害になる以前の状態に戻ってしまう。
半日前、1日前、1週間前に自分がなにをしていたか?……というのは、じつのところ厳密に記憶していることは希だろう。
記憶は機械的な記録メディアのように、情報を正確に記録しているわけではない。ある手掛かりから関連するイメージを、思い出したときに再構築するのが記憶だ。つまり、思い出すたびにイメージを書き直しているわけで、時間の経過とともに記憶は変化していく。
人間は「過去」「現在」「未来」という、時間の時系列を認識できるので、記憶を時系列で整理して覚えていられる。
だが、猫にはそんな能力というか意識はない。
時系列で考えるというのは、論理的な思考である。猫はそんな思考はしない。
「猫は三歩歩いたら忘れる」ともいうが、猫たちにも記憶はある。ただ、その記憶に「時間」の概念がないだけだ。
猫たちの生きる世界は、「現在」だけの世界だろう。
記憶はあっても、それが「過去」という認識はしていないはずだ。あることを覚えていても、それは現在のその時点での有効な知恵としての記憶であり、過去という引き出しから出してきたものではない。
昨日のことは覚えていなくても、水がどこにあるか、トイレがどこにあるか、食べ物がどこにあるかはわかる。
私たちのことは覚えていて、帰宅すれば喜んで迎えてくれる。しかし、昨日いっしょに遊んだことなどは覚えてはいないだろう。猫たちにとって、私たちはいっしょに遊んでくれる相手であり、いっしょに寝る相手であり、ご飯をくれる相手であり……と、過去の経験から学んだ記憶が、今現在の行動に反映されているにすぎない。時系列で整理される記憶ではなく、ごちゃごちゃになった記憶が必要なときに行動を決定をする条件になっている……ということだと思う。
人は「整理された記憶」によって、人格を形成したり、周囲との関わりを認識する。それは継続される社会性を求めているからだ。
猫のように生きるのであれば、新しい記憶が13時間しか保たなくても問題はない。
千尋が記憶が消えてしまうことに絶望を感じてしまうのは、人であるがゆえの社会性を必要としているからだ。
『ef - a tale of memories』の物語は、救いのある結末で終える。
千尋の記憶障害が治ることはないかもしれないが、彼女の存在は観た人たちの記憶に鮮明に刻まれることは確かだろう。
(18:04)
2008年05月08日
連休中は、HDDレコーダーに録りためてあったアニメを観ていた。
なにしろ録っている作品数が多いので、それだけ観るのにも時間がかかる。たいていは週末に観ているのだが、それでも追いつかずに録ってはいても観られないものが蓄積していく。
数ヶ月分……つまり1つの作品で8話〜12話分を一気に観ることもある。3カ月分だと、ほぼワンクール分だ。CMは飛ばしてしまうから、正味約25分×12=300分(5時間)くらいだ。
こういうことができるようになったのも、HDDレコーダーのお陰だ。タイトルリストを番組名で並べ替えて、順番に観ていける。
一気にまとめて観ることは、作品世界に没頭できるということでいい面もある。
ちなみに、現在録っている作品リストは以下。●は2008年春の新番組、○は前シーズンからの番組または再放送。
●RD 潜脳調査室
●図書館戦争
●マクロス FRONTIER
●ソウルイーター
●ゴルゴ13
●クリスタル ブレイズ
●コードギアス 反逆のルルーシュ R2
●隠の王
●ドルアーガ
●モノクローム・ファクター
●xxxHOLiC◆継
●我が家のお稲荷さま。
●今日からマ王!
●アリソンとリリア
●ヴァンパイア騎士
●仮面のメイドガイ
●イタズラなKiss
●かのこん
●狂乱家族日記
●紅
●あまつき
●純情ロマンチカ
●S・A 〜スペシャル・エー〜
●D.C.II S.S. 〜ダ・カーポII セカンドシーズン〜
●秘密 〜トップシークレット〜
●To LOVEる
●ネオ アンジェリーク Abyss
○ペルソナ
○BLEACH
○銀魂
○R.O.D -THE TV-
○GUNSLINGER GIRL - IL TEATRINO -
並べてみたら32本(^_^;
我ながらよく観てるなー。新番組に関しては、個人的に面白い順になっている。
なぜ、これだけのアニメを観ているかといえば……
アニメが好きだというのもあるが、「物語」に飢えているのだ。
SF、ファンタジー、学園、オカルト、時代劇、恋愛、ハードボイルド、コメディ……etcと、これだけ多岐にわたる作品があるのは、アニメならではだろう。ドラマでは役者が大根だったり脚本が陳腐だったりして白けてしまうことも多いが、アニメはその点ある程度のクオリティはクリアしている。もちろんつまらない作品もあるわけだが、そういう作品は録るリストから脱落する。
なによりも、「物語」として強烈に魅力的な作品が、毎シーズン2〜3本はある。
連休中に一気に観て、引き込まれてしまった作品があった。
最初の2話まで観て、保留にしてあった作品だった。
それが、『true tears』
true tears vol.1
放映はとっくに終わっていて、すでにDVDも発売されているのだが、やっと観ることができた。
学園もので恋愛ものという、シチュエーションとしてはオーソドックスな作品だったが、回を追うごとに物語の深みが増し、キャラクターが生き生きとしていった。
キャラクターのそれぞれが背負っている過去は、見ようによってはやや非現実的ではあるが、それが物語の必然となっていく過程が素晴らしかった。物語中に登場する「絵本」の話が、話の展開を大きく飛躍させた。思春期の少年少女たちの心の機微を象徴する寓話にもなっていた。
最終回……
不覚にも、涙がボロボロとこぼれてきた……
くそっ!(^_^;;;;;
春の新番組でも、学園を舞台にした作品は多い。
学園ものに心ひかれるのは、とっくに学生時代を卒業してしまった郷愁があるからだろう。今現在、中高生である世代よりも、その年頃を過去のこととして記憶している世代の方が、より敏感に共鳴できるように思う。
自分の思春期の頃は、物語のような劇的な展開はなかったものの、それなりに楽しい思い出もある。「もしも、あのとき」という仮定のドラマを重ねることで、物語に親近感を覚える。
それは作っているスタッフにとっても同様なのだと思う。
高校の3年間なんて、たいしたことができるわけではなかった。当時は、楽しいことよりも辛いことの方が多くて、1年が長く感じたものだ。でも、過ぎてしまうとあっという間で、ほんのささやかな記憶が素晴らしいことのように思えてしまう。
それはたどり着けなかった「夢」であり、「想い」だ。
俗っぽく「青春」といわれる年頃に、置いてきてしまった数々の欠片が、今になって夜空の星のように輝いている。
『true tears』は満天の星が降ってきたのだ。
泣ける物語は、そうそうあるものではない。
なにしろ録っている作品数が多いので、それだけ観るのにも時間がかかる。たいていは週末に観ているのだが、それでも追いつかずに録ってはいても観られないものが蓄積していく。
数ヶ月分……つまり1つの作品で8話〜12話分を一気に観ることもある。3カ月分だと、ほぼワンクール分だ。CMは飛ばしてしまうから、正味約25分×12=300分(5時間)くらいだ。
こういうことができるようになったのも、HDDレコーダーのお陰だ。タイトルリストを番組名で並べ替えて、順番に観ていける。
一気にまとめて観ることは、作品世界に没頭できるということでいい面もある。
ちなみに、現在録っている作品リストは以下。●は2008年春の新番組、○は前シーズンからの番組または再放送。
●RD 潜脳調査室
●図書館戦争
●マクロス FRONTIER
●ソウルイーター
●ゴルゴ13
●クリスタル ブレイズ
●コードギアス 反逆のルルーシュ R2
●隠の王
●ドルアーガ
●モノクローム・ファクター
●xxxHOLiC◆継
●我が家のお稲荷さま。
●今日からマ王!
●アリソンとリリア
●ヴァンパイア騎士
●仮面のメイドガイ
●イタズラなKiss
●かのこん
●狂乱家族日記
●紅
●あまつき
●純情ロマンチカ
●S・A 〜スペシャル・エー〜
●D.C.II S.S. 〜ダ・カーポII セカンドシーズン〜
●秘密 〜トップシークレット〜
●To LOVEる
●ネオ アンジェリーク Abyss
○ペルソナ
○BLEACH
○銀魂
○R.O.D -THE TV-
○GUNSLINGER GIRL - IL TEATRINO -
並べてみたら32本(^_^;
我ながらよく観てるなー。新番組に関しては、個人的に面白い順になっている。
なぜ、これだけのアニメを観ているかといえば……
アニメが好きだというのもあるが、「物語」に飢えているのだ。
SF、ファンタジー、学園、オカルト、時代劇、恋愛、ハードボイルド、コメディ……etcと、これだけ多岐にわたる作品があるのは、アニメならではだろう。ドラマでは役者が大根だったり脚本が陳腐だったりして白けてしまうことも多いが、アニメはその点ある程度のクオリティはクリアしている。もちろんつまらない作品もあるわけだが、そういう作品は録るリストから脱落する。
なによりも、「物語」として強烈に魅力的な作品が、毎シーズン2〜3本はある。
連休中に一気に観て、引き込まれてしまった作品があった。
最初の2話まで観て、保留にしてあった作品だった。
それが、『true tears』
true tears vol.1放映はとっくに終わっていて、すでにDVDも発売されているのだが、やっと観ることができた。
学園もので恋愛ものという、シチュエーションとしてはオーソドックスな作品だったが、回を追うごとに物語の深みが増し、キャラクターが生き生きとしていった。
キャラクターのそれぞれが背負っている過去は、見ようによってはやや非現実的ではあるが、それが物語の必然となっていく過程が素晴らしかった。物語中に登場する「絵本」の話が、話の展開を大きく飛躍させた。思春期の少年少女たちの心の機微を象徴する寓話にもなっていた。
最終回……
不覚にも、涙がボロボロとこぼれてきた……
くそっ!(^_^;;;;;
春の新番組でも、学園を舞台にした作品は多い。
学園ものに心ひかれるのは、とっくに学生時代を卒業してしまった郷愁があるからだろう。今現在、中高生である世代よりも、その年頃を過去のこととして記憶している世代の方が、より敏感に共鳴できるように思う。
自分の思春期の頃は、物語のような劇的な展開はなかったものの、それなりに楽しい思い出もある。「もしも、あのとき」という仮定のドラマを重ねることで、物語に親近感を覚える。
それは作っているスタッフにとっても同様なのだと思う。
高校の3年間なんて、たいしたことができるわけではなかった。当時は、楽しいことよりも辛いことの方が多くて、1年が長く感じたものだ。でも、過ぎてしまうとあっという間で、ほんのささやかな記憶が素晴らしいことのように思えてしまう。
それはたどり着けなかった「夢」であり、「想い」だ。
俗っぽく「青春」といわれる年頃に、置いてきてしまった数々の欠片が、今になって夜空の星のように輝いている。
『true tears』は満天の星が降ってきたのだ。
泣ける物語は、そうそうあるものではない。
(14:05)
2008年05月02日
ふだん、ほとんど考えることのない、仮定の問題。
自分が死んだあと、ブログやサイトに書き残したコンテンツはどうなるのだろうか?……という話。
そういえば、そんなことまで考えてブログやサイトを作ってはいないなーと思った。
ドメインは契約期間中は残るだろうけど、更新しなければなくなる。
サーバーも契約期間中は残るだろうけど、切れたら家族が更新しない限りは消えてなくなる。
書きためた日々の記録や想いは、それとともに電脳空間からも葬られる。
ある意味、二度死ぬことに等しい気がしてきた。
そんなことを気づかせてくれた記事。
鬼籍のマイミク | WIRED VISION
この記事を読んだあと、ふと、亡くなった友人のことを思い出した。
私よりも年下だったが、古くからの友人で、同郷でもあった。田舎で私が主宰していたマンガサークルに、彼が入会してきたことで知り合った。
私の方が少し早く上京して、のちに彼も上京してきた。同じ業界で仕事をするようになり、ときに一緒に仕事をすることもあった。
彼の名前は「西崎まりの」
メジャーになることはなかったが、知る人ぞ知る個性的な絵描きだった。
彼の名前を検索してみると……
彼を知る人たちによる、記事がいくつか出てきた。
亡くなって4年になるが、彼の名前はまだ「生きている」と感じる。
不思議な感覚だ。
身近な人間だからというのもあるが、彼のことを記した「記憶」がネット上に存在しているという事実が、生きている彼を想像させる。
「西崎まりの」のことを記したブログがあった。
【西崎まりのに花束を。-浦嶋嶺至、朋友への手紙-】
彼が生きていた時代の、彼を取り巻く業界と人間関係のことが書かれていた。
浦嶋氏との面識はないが、もしかしたら顔を合わせたことはあるかもしれない。というのも、私も当時、近いところで仕事で関わっていたからだ。ブログ中の登場人物の何人かは、私も面識があった。
記事を読みながら、当時のことを懐かしく思い出した。
仕事の関わりでいえば、「サイバーコミック」「エリアルコミック」のカバーデザインや記事ページのデザインは、私がやっていた。ゼネプロが編集として関わった書籍やコミック、PCゲームのカバーデザインのいくつかも手がけた。そして、西崎氏の絵をキャラクターとした、スーファミのゲーム「サイコドリーム」のマニュアルのデザインも、彼から依頼されて制作した。
また、漫画情報誌『ぱふ』の同人誌コーナーのレビューを、1986年頃から3年間くらい担当していた。
この頃は、西崎氏とよく会っていた。
「なにもかも、みな懐かしい」……思い出だ。
実体としての「死」と、ネット上の人格の「死」は、必ずしもイコールではないということだろう。
自分が死んだあと、ブログやサイトに書き残したコンテンツはどうなるのだろうか?……という話。
そういえば、そんなことまで考えてブログやサイトを作ってはいないなーと思った。
ドメインは契約期間中は残るだろうけど、更新しなければなくなる。
サーバーも契約期間中は残るだろうけど、切れたら家族が更新しない限りは消えてなくなる。
書きためた日々の記録や想いは、それとともに電脳空間からも葬られる。
ある意味、二度死ぬことに等しい気がしてきた。
そんなことを気づかせてくれた記事。
鬼籍のマイミク | WIRED VISION
これから日本でも本格化するであろう団塊の世代向けの SNS ビジネスに訃報伝送機能は欠かせないのでしょうし、遺族に渡す電子金庫あたりもそうした SNS の機能の一つに入りそうです。
(中略)
しかし……とここまできて、自身のサイト、文章にそこまでこだわる理由は何だろうとふと考えてしまいます。死んだ後もお前の駄文をありがたがって読んでくれる人がいると思ってんのかよ、と突っ込まれそうです。
この記事を読んだあと、ふと、亡くなった友人のことを思い出した。
私よりも年下だったが、古くからの友人で、同郷でもあった。田舎で私が主宰していたマンガサークルに、彼が入会してきたことで知り合った。
私の方が少し早く上京して、のちに彼も上京してきた。同じ業界で仕事をするようになり、ときに一緒に仕事をすることもあった。
彼の名前は「西崎まりの」
メジャーになることはなかったが、知る人ぞ知る個性的な絵描きだった。
彼の名前を検索してみると……
彼を知る人たちによる、記事がいくつか出てきた。
亡くなって4年になるが、彼の名前はまだ「生きている」と感じる。
不思議な感覚だ。
身近な人間だからというのもあるが、彼のことを記した「記憶」がネット上に存在しているという事実が、生きている彼を想像させる。
「西崎まりの」のことを記したブログがあった。
【西崎まりのに花束を。-浦嶋嶺至、朋友への手紙-】
彼が生きていた時代の、彼を取り巻く業界と人間関係のことが書かれていた。
浦嶋氏との面識はないが、もしかしたら顔を合わせたことはあるかもしれない。というのも、私も当時、近いところで仕事で関わっていたからだ。ブログ中の登場人物の何人かは、私も面識があった。
記事を読みながら、当時のことを懐かしく思い出した。
仕事の関わりでいえば、「サイバーコミック」「エリアルコミック」のカバーデザインや記事ページのデザインは、私がやっていた。ゼネプロが編集として関わった書籍やコミック、PCゲームのカバーデザインのいくつかも手がけた。そして、西崎氏の絵をキャラクターとした、スーファミのゲーム「サイコドリーム」のマニュアルのデザインも、彼から依頼されて制作した。
また、漫画情報誌『ぱふ』の同人誌コーナーのレビューを、1986年頃から3年間くらい担当していた。
この頃は、西崎氏とよく会っていた。
「なにもかも、みな懐かしい」……思い出だ。
実体としての「死」と、ネット上の人格の「死」は、必ずしもイコールではないということだろう。
(14:23)
2008年04月25日
前にも書いたような気がするが……(^_^;
ブログ以前の日記(戯れ言)だったかな?
まぁ、いいや。
明晰夢は、睡眠中に夢であることを自覚できる「夢」のことだが、私はたいていの場合、明晰夢だ。
それについての記事。
[雑学] 夢の内容を自由自在にコントロール!“明晰夢”を見る方法とは? | LxR | R25.jp
夢がモノクロという人も多いらしいが、私はフルカラーである(^_^)
視覚(色彩、立体感)、聴覚(音)だけではなく、触感(手触り、質感、温度など)、味覚、嗅覚、痛覚なども感じられる。覚醒しているときの感覚が、夢を見ているときにも再現される。
もうひとつ、重力感も感じられる。それは無重力状態の時の浮遊感や、飛んでいる夢の時の加速感などだ。
SFっぽい夢も見るので、宇宙空間が舞台だったりすると、そこが無重力なのかどうかが再現されるというわけだ。その感覚は、脳がイメージとして作り出しているものだろうが、かなりリアルで面白い疑似体験になる。
そして、夢を見ているときだけに思い出せる、「夢の中の記憶」というのがある。
ふだんの生活の中では忘れているのだが、ある夢をみているときに、「あっ、ここは前にも来たことがある」と思い出すのだ。
それは夢の中の世界で、以前にも見た夢の場面や場所と似通っているときに、記憶がよみがえる。
しかし、もともと確定された世界ではない夢の世界だから、前の時と同一ではない。あちこちが微妙に違っている。
「前のときは、たしかこの先にアレがあったはず……」と、夢の中の道を進んでも、アレは存在しているとは限らない。
また、あるときは同じようなストーリーが展開されて、次はこうなるはずだから、回避しよう……と思ってみても、ストーリーが変わってしまったりする。
自分が夢を見ていることは自覚できるから、場所やストーリーを改変しようとする。うまくいくこともあれば、予想外の展開へと発展することもある。
ある意味、脳内RPGである。
夢を見ていて目覚めた直後は、夢の記憶が現実の記憶と混濁している。リアルな夢なので、寝ぼけた頭では区別がつかないのだ。
起きてシャワーを浴び、歯磨きをしていると、はたと気がつく。
「あっ、この記憶は夢の中の記憶だ」と。
そこではじめて、現実の記憶と夢の記憶が分離される。
その感覚は、夢世界の中で生きている、もうひとつの人格がいるような感じだ。
リアルの世界も、結局のところ、脳が描き出しているイメージに過ぎない。
目から入ってきた光の情報が、脳の中で映像として認識されるのに、30分の1秒かかるという。つまり、見えているものは過去の世界なのだ。
リアルといえども、真の意味でリアルではない。
夢が脳の中で生成されている世界であるなら、脳にとってはそれもリアルなものだともいえるのではないだろうか。
ブログ以前の日記(戯れ言)だったかな?
まぁ、いいや。
明晰夢は、睡眠中に夢であることを自覚できる「夢」のことだが、私はたいていの場合、明晰夢だ。
それについての記事。
[雑学] 夢の内容を自由自在にコントロール!“明晰夢”を見る方法とは? | LxR | R25.jp
明晰夢を見ることができる人はかなり少数ですが、訓練次第で見られるようになる可能性はありますよ。明晰夢は普通の夢よりも視覚や聴覚が鮮明に感じられ、幸福感に包まれたり、感動体験をしたりと、主観的には満足度が高い。
夢がモノクロという人も多いらしいが、私はフルカラーである(^_^)
視覚(色彩、立体感)、聴覚(音)だけではなく、触感(手触り、質感、温度など)、味覚、嗅覚、痛覚なども感じられる。覚醒しているときの感覚が、夢を見ているときにも再現される。
もうひとつ、重力感も感じられる。それは無重力状態の時の浮遊感や、飛んでいる夢の時の加速感などだ。
SFっぽい夢も見るので、宇宙空間が舞台だったりすると、そこが無重力なのかどうかが再現されるというわけだ。その感覚は、脳がイメージとして作り出しているものだろうが、かなりリアルで面白い疑似体験になる。
そして、夢を見ているときだけに思い出せる、「夢の中の記憶」というのがある。
ふだんの生活の中では忘れているのだが、ある夢をみているときに、「あっ、ここは前にも来たことがある」と思い出すのだ。
それは夢の中の世界で、以前にも見た夢の場面や場所と似通っているときに、記憶がよみがえる。
しかし、もともと確定された世界ではない夢の世界だから、前の時と同一ではない。あちこちが微妙に違っている。
「前のときは、たしかこの先にアレがあったはず……」と、夢の中の道を進んでも、アレは存在しているとは限らない。
また、あるときは同じようなストーリーが展開されて、次はこうなるはずだから、回避しよう……と思ってみても、ストーリーが変わってしまったりする。
自分が夢を見ていることは自覚できるから、場所やストーリーを改変しようとする。うまくいくこともあれば、予想外の展開へと発展することもある。
ある意味、脳内RPGである。
夢を見ていて目覚めた直後は、夢の記憶が現実の記憶と混濁している。リアルな夢なので、寝ぼけた頭では区別がつかないのだ。
起きてシャワーを浴び、歯磨きをしていると、はたと気がつく。
「あっ、この記憶は夢の中の記憶だ」と。
そこではじめて、現実の記憶と夢の記憶が分離される。
その感覚は、夢世界の中で生きている、もうひとつの人格がいるような感じだ。
リアルの世界も、結局のところ、脳が描き出しているイメージに過ぎない。
目から入ってきた光の情報が、脳の中で映像として認識されるのに、30分の1秒かかるという。つまり、見えているものは過去の世界なのだ。
リアルといえども、真の意味でリアルではない。
夢が脳の中で生成されている世界であるなら、脳にとってはそれもリアルなものだともいえるのではないだろうか。
(18:45)
2008年04月24日
ネット時代になって、ネット上やそれを取り巻く環境で起きる社会現象を、ネット時代特有の現象として取り上げることも多くなった。
たとえば、誰もがネットを利用できるようになって、個人でも情報を発信できる時代となって、マスメディアや出版社などを介さずに意見を主張したり作品を発表できる。
そのことが、旧来のメディアや出版社のビジネスモデルを破壊することになる……といわれている。You Tubeやケータイ小説に代表される現象だ。
あるいは、次の記事のようなこと。
仲良くするのはこんなに難しいのか〜『友だち幻想 人と人との〈つながり〉を考える』 菅野仁著(評:澁川祐子):NBonline(日経ビジネス オンライン)
これらのことが、ネット時代特有のことかというと……
じつは違う。
ネット時代以前にもあったことの、ネット版焼き直しなのだ。
『個人でも情報を発信できる』ということに関しては、ネット時代以前では「同人誌」がその役割を担っていた。
現在でも、コミケに代表される同人誌即売会はあるが、ネット時代以前と現在では、その役割や意義はまったく違っている。
かつての同人誌は、個人が作品や論評記事を発表する、唯一の媒体だった。自費出版するための費用がバカにならなかったが、とにかく発表することが可能だったのだ。同人誌即売会は、その発表の舞台(売り場)として発生した。
ただし、本という形での頒布だったため、行き渡る人数には限界があった。印刷コストの問題もあり、せいぜい100〜200人に頒布できれば御の字だった。売れたからといって儲けになることはなく、多くの場合、赤字だ。
それでも、出版社を介することなく、自分たちの作品を読んでもらえる貴重な機会であった。
初期の頃の同人誌即売会は、参加している人が作品の書き手であり、買い手でもあった。私が初めて行ったコミケは、まだ参加サークル数が800くらいで、晴海の会場の1つを使い、その会場内に余裕があるような状態だった。かれこれ、25年くらい前の話。
ネットという限りなくコストがかからないインフラが整って、個人が情報を発信するための垣根が低くなった。そういう意味では、あまりに恵まれた環境だ。
Mixiなどのコミュニティは、かつての同人誌即売会という小さなコミュニティに通じるものがある。大きな違いは、かかわる人間の数が桁違いなのと、レスポンスを得るための通信手段が素早いことだ。
郵便の手紙でコミュニケーションを取っていたのが電子メールになり、作品や記事を読んでもらえる規模が数百人から数万人になった。
そこに時代の変化を感じるものの、基本的な構造は変わらず、私から見ればネット版に置き換えただけである。
言い換えれば、ネットによる総オタク化である。
『通話状態の携帯を放置』についても、私には既視感のある現象だ。
それは「アマチュア無線」だ。
電波の届く範囲という制約はあったものの、遠く離れた友人と自宅からいつでも話ができた。通信コストは無線機の電気代くらいでほとんどかからない。学生時代は、自宅で勉強しながら、友人とチャンネルを合わせて送信をON状態にしていた。つまり、特に話をするわけでもなく、つながりっぱなしである。
ただ、無線は送受信が一方通行なので、同時に送信⇔受信状態にするには、無線機が2つ必要になる。たいていの場合、無線機は周波数帯の違う数台を持っていたので、これが可能だった。
そのときの感覚は、時間の共有だった。
部屋の中ではひとりだが、無線機を通じて向こうに友人がいる……という、ごく単純な事実が孤独ではないという認識を生んだ。
深夜になり、「おれ、そろそろ寝るぜ」といって、無線機を切るときは、どっちが先に切るかというので、なかなか互いに切れなくなることがあった。そんなときは、なにがしかの会話を始めて、結局、朝まで語り明かしたということもあった。
ネットや携帯電話では、通信範囲に制限がなくなったという違いだろう。
アマチュア無線にも、同好会のようなコミュニティがあった。OFF会というのも、このころからあり、ネットでのOFF会もルーツはアマチュア無線かもしれない。
前出の記事では、「つながり」に関連して「傷つきやすい若者」ということに関して、次のように書かれている。
それも一理あると思うが、私は少し違う見方をしている。
ネットでのコミュニケーション方法は、主として「テキスト」である。
メール、掲示板、SNSやプロフにしても、おもにテキストでメッセージの交換が行われる。
文章を書くという、誰にでもできることではあるが、高度なテクニックを必要とする不完全な手段によって、ときに誤解や意図を明確に伝えられないことになってしまう。
自分の意思を言葉で書くことは、じつは難しい。また、書かれていることの真意をくみ取ることも難しい。
安易なようで、とても難しい手段でコミュニケーションを成立させようとするから、ちゃんとしたコミュニケーションが成り立たない。
ブログの炎上や、プロフでのトラブルは、その不完全さ、稚拙さから事態が悪化する。
これが会話によるコミュニケーションであれば、言葉足らずであったとしても、ニュアンスが伝わったり、何度もリアルタイムで説明を試みることで、ある程度の真意を伝えられる。
アマチュア無線で、交信中に「炎上」するなんてことはありえない。喧嘩になることはあっても、不特定多数を巻き込むトラブルには発展しない。それはコミュニケーションが完結するからだ。
ネットは、コミュニケーションが完結しない。延々とすれ違いの応酬が続く。それはテキストという不完全な手段に頼っているからだ。
そもそものコミュニケーション手段としてのテキストが不完全でもあるにもかかわらず、成立しないコミュニケーションに対して疎外感や勝手な思いこみをしてしまうこと自体が問題なのだと思う。
現在のネットは、機器やインフラの環境が限られているために、テキスト主体にならざるをえない。つまりは、未成熟なメディアということだ。
映画「マトリックス」の世界のように、バーチャルでありながらバーチャルであることを意識しないような世界が実現したなら、現在のネットの問題などは、ネット世界が未成熟だったがゆえの問題だったと片付けられてしまうのだろう。
たとえば、誰もがネットを利用できるようになって、個人でも情報を発信できる時代となって、マスメディアや出版社などを介さずに意見を主張したり作品を発表できる。
そのことが、旧来のメディアや出版社のビジネスモデルを破壊することになる……といわれている。You Tubeやケータイ小説に代表される現象だ。
あるいは、次の記事のようなこと。
仲良くするのはこんなに難しいのか〜『友だち幻想 人と人との〈つながり〉を考える』 菅野仁著(評:澁川祐子):NBonline(日経ビジネス オンライン)
“携帯電話の無料通話サービスを利用して、友だちや彼氏と話もせずに携帯電話をかけっ放しにしている中高生がいる”
という話が、最近ネット上で話題になった。通話状態の携帯を放置したまま、ゴソゴソという生活音だけをお互いにただ流しているというのだ。現実にかけっ放しをしている中高生がどれだけいるか、真偽のほどは定かじゃない。だが、正直「あり得るだろうな」と思った。
これらのことが、ネット時代特有のことかというと……
じつは違う。
ネット時代以前にもあったことの、ネット版焼き直しなのだ。
『個人でも情報を発信できる』ということに関しては、ネット時代以前では「同人誌」がその役割を担っていた。
現在でも、コミケに代表される同人誌即売会はあるが、ネット時代以前と現在では、その役割や意義はまったく違っている。
かつての同人誌は、個人が作品や論評記事を発表する、唯一の媒体だった。自費出版するための費用がバカにならなかったが、とにかく発表することが可能だったのだ。同人誌即売会は、その発表の舞台(売り場)として発生した。
ただし、本という形での頒布だったため、行き渡る人数には限界があった。印刷コストの問題もあり、せいぜい100〜200人に頒布できれば御の字だった。売れたからといって儲けになることはなく、多くの場合、赤字だ。
それでも、出版社を介することなく、自分たちの作品を読んでもらえる貴重な機会であった。
初期の頃の同人誌即売会は、参加している人が作品の書き手であり、買い手でもあった。私が初めて行ったコミケは、まだ参加サークル数が800くらいで、晴海の会場の1つを使い、その会場内に余裕があるような状態だった。かれこれ、25年くらい前の話。
ネットという限りなくコストがかからないインフラが整って、個人が情報を発信するための垣根が低くなった。そういう意味では、あまりに恵まれた環境だ。
Mixiなどのコミュニティは、かつての同人誌即売会という小さなコミュニティに通じるものがある。大きな違いは、かかわる人間の数が桁違いなのと、レスポンスを得るための通信手段が素早いことだ。
郵便の手紙でコミュニケーションを取っていたのが電子メールになり、作品や記事を読んでもらえる規模が数百人から数万人になった。
そこに時代の変化を感じるものの、基本的な構造は変わらず、私から見ればネット版に置き換えただけである。
言い換えれば、ネットによる総オタク化である。
『通話状態の携帯を放置』についても、私には既視感のある現象だ。
それは「アマチュア無線」だ。
電波の届く範囲という制約はあったものの、遠く離れた友人と自宅からいつでも話ができた。通信コストは無線機の電気代くらいでほとんどかからない。学生時代は、自宅で勉強しながら、友人とチャンネルを合わせて送信をON状態にしていた。つまり、特に話をするわけでもなく、つながりっぱなしである。
ただ、無線は送受信が一方通行なので、同時に送信⇔受信状態にするには、無線機が2つ必要になる。たいていの場合、無線機は周波数帯の違う数台を持っていたので、これが可能だった。
そのときの感覚は、時間の共有だった。
部屋の中ではひとりだが、無線機を通じて向こうに友人がいる……という、ごく単純な事実が孤独ではないという認識を生んだ。
深夜になり、「おれ、そろそろ寝るぜ」といって、無線機を切るときは、どっちが先に切るかというので、なかなか互いに切れなくなることがあった。そんなときは、なにがしかの会話を始めて、結局、朝まで語り明かしたということもあった。
ネットや携帯電話では、通信範囲に制限がなくなったという違いだろう。
アマチュア無線にも、同好会のようなコミュニティがあった。OFF会というのも、このころからあり、ネットでのOFF会もルーツはアマチュア無線かもしれない。
前出の記事では、「つながり」に関連して「傷つきやすい若者」ということに関して、次のように書かれている。
現代社会は欲望の対象の幅が広がり、なおかつ欲望を満たそうとするときの障害も少ない。そのことが、〈あり余る選択肢の存在が個々の魅力を減退させ〉ている。つまり、どの選択肢を選んだとしても「もっといい選択肢があったのではないか」と考えずにはいられない。そうした状況が、自己肯定感のなさにつながり、現代特有の生きづらさを引き起こしていると指摘する。
それも一理あると思うが、私は少し違う見方をしている。
ネットでのコミュニケーション方法は、主として「テキスト」である。
メール、掲示板、SNSやプロフにしても、おもにテキストでメッセージの交換が行われる。
文章を書くという、誰にでもできることではあるが、高度なテクニックを必要とする不完全な手段によって、ときに誤解や意図を明確に伝えられないことになってしまう。
自分の意思を言葉で書くことは、じつは難しい。また、書かれていることの真意をくみ取ることも難しい。
安易なようで、とても難しい手段でコミュニケーションを成立させようとするから、ちゃんとしたコミュニケーションが成り立たない。
ブログの炎上や、プロフでのトラブルは、その不完全さ、稚拙さから事態が悪化する。
これが会話によるコミュニケーションであれば、言葉足らずであったとしても、ニュアンスが伝わったり、何度もリアルタイムで説明を試みることで、ある程度の真意を伝えられる。
アマチュア無線で、交信中に「炎上」するなんてことはありえない。喧嘩になることはあっても、不特定多数を巻き込むトラブルには発展しない。それはコミュニケーションが完結するからだ。
ネットは、コミュニケーションが完結しない。延々とすれ違いの応酬が続く。それはテキストという不完全な手段に頼っているからだ。
そもそものコミュニケーション手段としてのテキストが不完全でもあるにもかかわらず、成立しないコミュニケーションに対して疎外感や勝手な思いこみをしてしまうこと自体が問題なのだと思う。
現在のネットは、機器やインフラの環境が限られているために、テキスト主体にならざるをえない。つまりは、未成熟なメディアということだ。
映画「マトリックス」の世界のように、バーチャルでありながらバーチャルであることを意識しないような世界が実現したなら、現在のネットの問題などは、ネット世界が未成熟だったがゆえの問題だったと片付けられてしまうのだろう。
(19:06)
2008年04月23日
タバコの自販機で導入される「タスポ」
先行して導入が始まった地域では、自販機の売り上げが激減しているという。
逆にコンビニ等での対面販売での売り上げが上がっているそうだ。
1700万人ともいわれる喫煙者を囲い込むことをもくろんでいた業界は、その意図とは正反対にタバコ離れを加速することになりそうだ。
そんな記事。
たばこ自販機が消える:NBonline(日経ビジネス オンライン)
私も喫煙はするが、タスポを申し込むつもりはない。
今後は自販機でタバコを買うことはなくなるだろう。
自販機を利用することのメリットは、短時間で面倒がなく、最小限の目的を達成できることにある。また、なくなったら1箱だけ買う、という必要最小限の購入が可能なことだ。
ときに切らしてしまうこともあるが、それが自販機の時刻制限で買えない深夜だったりすると、翌朝まで我慢することもある。
ある意味、喫煙する量を自制できるというメリットもあった。
近所のコンビニでは、以前は店の外に自販機を置いてあった。それが現在では店内での対面販売へと変わっている。タスポをにらんでのことではなく、自販機が外にあると、タバコを買う客は店に入ることなく通り過ぎてしまう。店内に移動したことで、私のような客がタバコと一緒に別の買い物もするようになるからだ。
賢明な対処だと思う。
対面販売でもまったく苦にはならないが、1カートン買うかどうかは悩みどころだ。余分のストックがあると、吸う本数が増えてしまいそうだからだ。
全国導入したら、どの程度タスポが普及するかは注目だ。
先行導入したところでは、現時点で30%前後のようだ。多少増えるにしても、50%くらいかもしれない。いずれにしても、100%ということはあり得ないから、自販機の売り上げが落ちることは確実だ。
タバコ業界は、自分の首を絞めることを始めてしまった。
これを機に「禁煙」という人もいるだろう。
それはそれで、いいのかもしれない。
タバコの問題ばかり悪者にされているが、「酒」の自販機も問題だろう。
電車での喫煙は御法度になっているが、飲酒は容認されている。電車のマナーとして、携帯電話はダメ、イヤホンの音漏れはダメ、化粧はダメ……と、いろいろとダメにされているが、どうして飲酒はOKなんだろう?
帰りの電車で、ビールの缶を片手にできあがっている人にときどき出くわすが、酒臭いし、ふんぞり返ってるし、あるときなど床に寝ころんでいることもあった。携帯電話などよりも、はるかに迷惑である。
駅内店舗で酒を売っていたりするから、禁止できないという思惑があるのだろう。
鉄道会社のいうマナーも、ご都合主義なものだと思う。
先行して導入が始まった地域では、自販機の売り上げが激減しているという。
逆にコンビニ等での対面販売での売り上げが上がっているそうだ。
1700万人ともいわれる喫煙者を囲い込むことをもくろんでいた業界は、その意図とは正反対にタバコ離れを加速することになりそうだ。
そんな記事。
たばこ自販機が消える:NBonline(日経ビジネス オンライン)
タスポの作製では、専用申込書に必要事項を記入し、顔写真や身分証明書のコピーを添えて窓口に郵送する必要がある。この煩雑さを嫌う喫煙者は多い。加えて、「店頭での反応で、想定していなかった喫煙者の層が2つあることが分かった。これらの層にタスポ取得を期待するのは難しい」と鹿児島市のたばこ店主は指摘する。
第1の層は、家族に内緒でたばこを吸っている“隠れ喫煙者”だ。主婦や、子供の誕生を機に禁煙をしたことになっているはずの男性などがこれに相当する。「財布にタスポが入っていると、家族に説明がつかないと言われる」。タスポの送付先は自宅に限定されており、家族に内緒で職場などで受け取ることもできない。
もう1つが「たばこをやめたいが、やめられない」喫煙者。タスポの保有は喫煙を続ける意思表示をしたに等しく、抵抗が大きいという。
私も喫煙はするが、タスポを申し込むつもりはない。
今後は自販機でタバコを買うことはなくなるだろう。
自販機を利用することのメリットは、短時間で面倒がなく、最小限の目的を達成できることにある。また、なくなったら1箱だけ買う、という必要最小限の購入が可能なことだ。
ときに切らしてしまうこともあるが、それが自販機の時刻制限で買えない深夜だったりすると、翌朝まで我慢することもある。
ある意味、喫煙する量を自制できるというメリットもあった。
近所のコンビニでは、以前は店の外に自販機を置いてあった。それが現在では店内での対面販売へと変わっている。タスポをにらんでのことではなく、自販機が外にあると、タバコを買う客は店に入ることなく通り過ぎてしまう。店内に移動したことで、私のような客がタバコと一緒に別の買い物もするようになるからだ。
賢明な対処だと思う。
対面販売でもまったく苦にはならないが、1カートン買うかどうかは悩みどころだ。余分のストックがあると、吸う本数が増えてしまいそうだからだ。
全国導入したら、どの程度タスポが普及するかは注目だ。
先行導入したところでは、現時点で30%前後のようだ。多少増えるにしても、50%くらいかもしれない。いずれにしても、100%ということはあり得ないから、自販機の売り上げが落ちることは確実だ。
タバコ業界は、自分の首を絞めることを始めてしまった。
これを機に「禁煙」という人もいるだろう。
それはそれで、いいのかもしれない。
タバコの問題ばかり悪者にされているが、「酒」の自販機も問題だろう。
電車での喫煙は御法度になっているが、飲酒は容認されている。電車のマナーとして、携帯電話はダメ、イヤホンの音漏れはダメ、化粧はダメ……と、いろいろとダメにされているが、どうして飲酒はOKなんだろう?
帰りの電車で、ビールの缶を片手にできあがっている人にときどき出くわすが、酒臭いし、ふんぞり返ってるし、あるときなど床に寝ころんでいることもあった。携帯電話などよりも、はるかに迷惑である。
駅内店舗で酒を売っていたりするから、禁止できないという思惑があるのだろう。
鉄道会社のいうマナーも、ご都合主義なものだと思う。
(17:42)
現在、わが家に新たな居候猫が1匹いる。
19日の土曜日に妻が近所で保護した、尻尾の長い黒猫である。とりあえずの名前が「しっぽ」
保護したその足で動物病院へ直行し、ノミ取りと健康診断(病気の検査)を受け、検査結果が出るまでは、うちのケージの中で隔離されていた。
昨日、検査結果が出て、すべてクリア。
これでケージから出して、他の猫たちと接触しても問題がない。
「しっぽ」は洋猫との雑種のようで、尻尾が普通の日本猫に比べて長い。それで名前を「しっぽ」としてある。
いちおう、これから里親を捜す予定だが、それまではわが家にホームステイだ。
病院代は妻の自腹。そうまでして猫を保護し、里親を捜すのは妻の使命感というか趣味である(^_^;
「しっぽ」は、もともと人懐こい猫だ。それでも爪切りは嫌なようで、伸び放題の爪を切るのに難儀している。
とはいえ、この猫だったら、里親に出しても慣れるのは早いと思う。
猫とつきあうには、猫の特性を知る必要があるが、犬と同じような反応を期待する人も少なくない。
猫は猫なのであるという一例。
ペットナビ:なついてくれない我が家の猫。何とか手なずけたい。 - 毎日jp(毎日新聞)
……というのが、一般的な猫に対する理解だろう。
「手なずける」という発想自体が間違っている。
だが、うちの猫たちはちょっと違う。
12匹の猫たちで、性格や行動パターンはそれぞれで異なるが、上記のような猫ばかりではない。
毎日、帰宅すると玄関まで出迎えに来る猫が数匹いる。まるで犬のように、待ってましたとばかりに愛想がいいのだ。
また、ベッタリと張りついたまま、長い時間そばにいる猫もいる。
夜、寝るときに、布団に入り込んできて、一緒に寝る猫もいる。布団好きの猫は5匹いて、早い者勝ちで毎晩場所取り合戦だ。ときには、3匹が同時に布団に入っていることもある。
うちの猫たちは、けっこうベタベタである(^_^)
19日の土曜日に妻が近所で保護した、尻尾の長い黒猫である。とりあえずの名前が「しっぽ」
保護したその足で動物病院へ直行し、ノミ取りと健康診断(病気の検査)を受け、検査結果が出るまでは、うちのケージの中で隔離されていた。
昨日、検査結果が出て、すべてクリア。
これでケージから出して、他の猫たちと接触しても問題がない。
「しっぽ」は洋猫との雑種のようで、尻尾が普通の日本猫に比べて長い。それで名前を「しっぽ」としてある。
いちおう、これから里親を捜す予定だが、それまではわが家にホームステイだ。
病院代は妻の自腹。そうまでして猫を保護し、里親を捜すのは妻の使命感というか趣味である(^_^;
「しっぽ」は、もともと人懐こい猫だ。それでも爪切りは嫌なようで、伸び放題の爪を切るのに難儀している。
とはいえ、この猫だったら、里親に出しても慣れるのは早いと思う。
猫とつきあうには、猫の特性を知る必要があるが、犬と同じような反応を期待する人も少なくない。
猫は猫なのであるという一例。
ペットナビ:なついてくれない我が家の猫。何とか手なずけたい。 - 毎日jp(毎日新聞)
「人間に対するあいさつも、しっぽ一振り、体を寄せるのも2、3秒で十分に満足するのです」
……というのが、一般的な猫に対する理解だろう。
「手なずける」という発想自体が間違っている。
だが、うちの猫たちはちょっと違う。
12匹の猫たちで、性格や行動パターンはそれぞれで異なるが、上記のような猫ばかりではない。
毎日、帰宅すると玄関まで出迎えに来る猫が数匹いる。まるで犬のように、待ってましたとばかりに愛想がいいのだ。
また、ベッタリと張りついたまま、長い時間そばにいる猫もいる。
夜、寝るときに、布団に入り込んできて、一緒に寝る猫もいる。布団好きの猫は5匹いて、早い者勝ちで毎晩場所取り合戦だ。ときには、3匹が同時に布団に入っていることもある。
うちの猫たちは、けっこうベタベタである(^_^)
(13:16)
2008年04月09日
ケータイ小説からヒット作が出たり、ブログや掲示板から話題になって出版されたりと、デジタルメディアのコンテンツを出版社が本のネタとして探すようになった。
柳の下にドジョウが……何匹出てくるかという話だろう。
とはいえ、「電車男」や「恋空」ほどヒットした作品は少なく、2匹目、3匹目のドジョウは大物ではなかった。
それでも次なる獲物を発掘しようと、躍起になっているようだが、青田買いの様相にもなっている。
現状の構造的なイメージは、「メジャーな出版社」が上位に君臨し、個人が発信する「デジタルコンテンツ・ユーザー(書き手)」が下位にある。
無料の小説サイトで好評な作品を、出版社が拾い上げて出版するという形だ。
無料のサイトに掲載している時点では、書き手に収入は発生しない。そこにあるのは、書き手の「書きたい」「読んでもらいたい」という無報酬の欲求であり、自己表現だろう。
本来なら、サイト内でヒットしていれば、書き手にとっては当初の目的は達成されている。
そこに出版社が、これは売れると商品化を持ちかけるわけだ。
音楽や映画がネットでも配信されているように、書籍もデジタル化してネットで配布されるようになった。もともと、インターネットの基本は「テキスト」であるから、小説などのテキストはネットに載せやすいものだった。
だが、商品としてのデジタル小説(有料コンテンツ)は、現在のところ、あまり成功しているとはいえない状況だ。
ネット発のヒット作は、無名の個人が発信して多くの支持を集めたものだ。
出版社発のデジタル・コンテンツでヒットした作品は少ない。出版社は「本」として形のあるものを出すことに固執するあまり、デジタル・コンテンツとしての販売方法や販売ルートを開拓することを怠ってきたからだろう。
小説をデジタル・コンテンツとして出す場合には、PDFや独自の体裁を用意したリーダーによって配布される。データとしての配布であるため、出版コストは大幅に軽減できるメリットがあるにもかかわらず、出版社はデータ配布に積極的ではない。
音楽がデータ配信され、iTunesが売り上げでトップになっている現在。音楽の販売方法はネット配信が主流になりつつある。
それに比べると、出版界は古い体質から抜け出せないでいる。
出版社の不振や倒産のニュースも、よく見かける。出版点数だけは相変わらず多いものの、ヒット作が少なくなっている。
それに関連した記事を以下に。
おもしろさは誰のものか:「出版界、このままでは崩壊する」――ダイナミックプロ、絶版ラノベ・SFを電子書籍化 (2/2) - ITmedia News
友人・知人に作家や漫画家が何人かいるが、それ専業で食べている人は少ない。
ことに小説だけで食える人は少ないようだ。自分のオリジナルの小説ではなく、ゲームやアニメのノベライズで収入を得ている人もいる。それでも「書く仕事」があるだけマシだろう。
小説の新人の場合、初版で1万部というのは恵まれている方だ。ジャンルや作品内容にもよるが、5千部程度というのも珍しくない。そして、多くの場合、再版されることはない。
作家として食っていくことは、並大抵のことではないのだ。
印税率が10%しかないのは、出版にかかるコストが高いためだ。
デジタル出版であれば、印刷にかかるコストはゼロである。印刷会社は打撃かもしれないが、作家や出版社にとっては自分の取り分を増やせることになる。
在庫の山を抱える必要もなく、必要なだけデータをコピーすればいいだけで、無駄な出版をしなくて済む。
ちなみに、出版物の印税は、基本的に出版部数に対して支払われるので、実売数がどのくらいかは関係ない。返本され、売れ残ったとしても、作家には発行部数分の報酬は支払われる。それは作家にとってはありがたいことだが、返本される出版社にとっては赤字である。効率の悪い販売方法でもあるのだ。
デジタル・コンテンツとしての印税はどのくらいかというと、「まぐまぐプレミアム」の場合には、実売単価に対して60%である。
上記の記事では、「作家に30%、イラストレーターに5%を配分する」という。
イラストレーターにも配分するというのが、新しい試みだ。通常、文庫のカバーのイラストを描いても、印税としてではなく、その仕事に対していくらという形だからだ。その場合、再版されても、イラストレーターには分配はされない。再版、再使用の場合の契約を取り交わすこと自体がないからである。
本の出版よりも、デジタル・コンテンツの印税率の方が多いのは当たり前だろう。
とはいえ、30%でも少ない気がする。まだ試行段階で、利益が見込めないからだろうが、作家の取り分が少なくとも半分はあってしかるべきだ。
その点、「まぐまぐプレミアム」は、書き手(発行者)主体のコンテンツ配布になっている。
実際、「まぐまぐプレミアム」で有料メルマガを発行し、それで生活できている発行者が少ないながらもいる。それは印税率が高いからだ。
仮に、月500円の購読料で、1000人の読者がいれば、月収は30万円になり、そこそこの生活はできる計算だ。
本の出版の場合、この程度の売り上げでは、500円×1000部×10%=5万円にしかならない。
この差は歴然としている。
小説を始めとした「デジタル・テキスト・コンテンツ」は、まだその売り方、効率のいい利益の上げ方のビジネスモデルが確立していない。
出版社がそのビジネスモデルを確立するのか、あるいはネット業界が確立するのか……。
そこにはビジネスチャンスがあると思うのだが……。
柳の下にドジョウが……何匹出てくるかという話だろう。
とはいえ、「電車男」や「恋空」ほどヒットした作品は少なく、2匹目、3匹目のドジョウは大物ではなかった。
それでも次なる獲物を発掘しようと、躍起になっているようだが、青田買いの様相にもなっている。
現状の構造的なイメージは、「メジャーな出版社」が上位に君臨し、個人が発信する「デジタルコンテンツ・ユーザー(書き手)」が下位にある。
無料の小説サイトで好評な作品を、出版社が拾い上げて出版するという形だ。
無料のサイトに掲載している時点では、書き手に収入は発生しない。そこにあるのは、書き手の「書きたい」「読んでもらいたい」という無報酬の欲求であり、自己表現だろう。
本来なら、サイト内でヒットしていれば、書き手にとっては当初の目的は達成されている。
そこに出版社が、これは売れると商品化を持ちかけるわけだ。
音楽や映画がネットでも配信されているように、書籍もデジタル化してネットで配布されるようになった。もともと、インターネットの基本は「テキスト」であるから、小説などのテキストはネットに載せやすいものだった。
だが、商品としてのデジタル小説(有料コンテンツ)は、現在のところ、あまり成功しているとはいえない状況だ。
ネット発のヒット作は、無名の個人が発信して多くの支持を集めたものだ。
出版社発のデジタル・コンテンツでヒットした作品は少ない。出版社は「本」として形のあるものを出すことに固執するあまり、デジタル・コンテンツとしての販売方法や販売ルートを開拓することを怠ってきたからだろう。
小説をデジタル・コンテンツとして出す場合には、PDFや独自の体裁を用意したリーダーによって配布される。データとしての配布であるため、出版コストは大幅に軽減できるメリットがあるにもかかわらず、出版社はデータ配布に積極的ではない。
音楽がデータ配信され、iTunesが売り上げでトップになっている現在。音楽の販売方法はネット配信が主流になりつつある。
それに比べると、出版界は古い体質から抜け出せないでいる。
出版社の不振や倒産のニュースも、よく見かける。出版点数だけは相変わらず多いものの、ヒット作が少なくなっている。
それに関連した記事を以下に。
おもしろさは誰のものか:「出版界、このままでは崩壊する」――ダイナミックプロ、絶版ラノベ・SFを電子書籍化 (2/2) - ITmedia News
作家は低収入で不安定な職業だという。「小説だけ書いて食べている人は、日本に5人もいないのではないか。小説家や漫画家には、JASRAC(日本音楽著作権協会)のように権利を集中管理して収益を上げている団体もない。『先生』などと呼ばれるが、作家は実質、出版社の下請けでしかない」と幸森さんは話す。
例えば、半年かけて小説を書き下ろし、700円の文庫で1万冊売るとする。印税率を10%で計算すると、印税収入は70万円。年2冊書くとして年収は140万円。純文学の作家なら、1〜3年に1冊というペースも珍しくない。「ある作家が税務署に確定申告に行ったら、『生活保護を受けたほうがいい』と言われた、なんて笑い話もある」
友人・知人に作家や漫画家が何人かいるが、それ専業で食べている人は少ない。
ことに小説だけで食える人は少ないようだ。自分のオリジナルの小説ではなく、ゲームやアニメのノベライズで収入を得ている人もいる。それでも「書く仕事」があるだけマシだろう。
小説の新人の場合、初版で1万部というのは恵まれている方だ。ジャンルや作品内容にもよるが、5千部程度というのも珍しくない。そして、多くの場合、再版されることはない。
作家として食っていくことは、並大抵のことではないのだ。
印税率が10%しかないのは、出版にかかるコストが高いためだ。
デジタル出版であれば、印刷にかかるコストはゼロである。印刷会社は打撃かもしれないが、作家や出版社にとっては自分の取り分を増やせることになる。
在庫の山を抱える必要もなく、必要なだけデータをコピーすればいいだけで、無駄な出版をしなくて済む。
ちなみに、出版物の印税は、基本的に出版部数に対して支払われるので、実売数がどのくらいかは関係ない。返本され、売れ残ったとしても、作家には発行部数分の報酬は支払われる。それは作家にとってはありがたいことだが、返本される出版社にとっては赤字である。効率の悪い販売方法でもあるのだ。
デジタル・コンテンツとしての印税はどのくらいかというと、「まぐまぐプレミアム」の場合には、実売単価に対して60%である。
上記の記事では、「作家に30%、イラストレーターに5%を配分する」という。
イラストレーターにも配分するというのが、新しい試みだ。通常、文庫のカバーのイラストを描いても、印税としてではなく、その仕事に対していくらという形だからだ。その場合、再版されても、イラストレーターには分配はされない。再版、再使用の場合の契約を取り交わすこと自体がないからである。
本の出版よりも、デジタル・コンテンツの印税率の方が多いのは当たり前だろう。
とはいえ、30%でも少ない気がする。まだ試行段階で、利益が見込めないからだろうが、作家の取り分が少なくとも半分はあってしかるべきだ。
その点、「まぐまぐプレミアム」は、書き手(発行者)主体のコンテンツ配布になっている。
実際、「まぐまぐプレミアム」で有料メルマガを発行し、それで生活できている発行者が少ないながらもいる。それは印税率が高いからだ。
仮に、月500円の購読料で、1000人の読者がいれば、月収は30万円になり、そこそこの生活はできる計算だ。
本の出版の場合、この程度の売り上げでは、500円×1000部×10%=5万円にしかならない。
この差は歴然としている。
小説を始めとした「デジタル・テキスト・コンテンツ」は、まだその売り方、効率のいい利益の上げ方のビジネスモデルが確立していない。
出版社がそのビジネスモデルを確立するのか、あるいはネット業界が確立するのか……。
そこにはビジネスチャンスがあると思うのだが……。
(17:01)
2008年04月08日
4月になり、春の新番組が続々と始まっている。
アニメに関していえば、新番組が40本もある。
多すぎだ(^_^;
とりあえず、第1話はチェックしているが、継続して見ようという気になる作品……つまり、面白そうな作品は少ない。
個別の作品については、後日書きたいと思うが、傾向として新鮮味に欠け、小粒ぞろいだ。多くは原作付きだが、その原作が古いものであったり、過去の作品の続編だったりする。
アニメとしてオリジナルの作品は少なく、これは制作側がリスクを避けているためだろう。原作で一定の人気があれば、リスクも少ないという考え方だ。だが、その原作となりうるマンガや小説も少なくなっているという。
テレビ放映だけで収益を上げるのではなく、のちにDVD化して商品として収益を上げるのが通例だが、これだけ量産すれば市場が飽和してしまうことは自明の理だ。
また、多くの作品がハイビジョン制作をしているが、ブルーレイ・レコーダーを持っていれば、ハイビジョン画質での録画が可能であり、市販される通常のDVDよりも映像品質が良いものが残せる。コレクターはDVDを買うかもしれないが、映像品質が放映時のハイビジョン画質より劣るDVDを買うことのメリットは少ない。
DVDからブルーレイへの移行期にある現在は、商品としてのDVDを売りにくい時期でもある。
新番組の中には、放映と同時進行でネット配信をする作品も出てきた。
映像的には劣化するが、地方で見られない人や、見逃した人にはいいのかもしれない。
デジタルメディアのコピー回数を制限する「ダビング10」は、6月から施行される。
しかし、この方法は、恩恵があるようでユーザーにとっては、あまりメリットのあるものではない。HDDに録画した番組から、直接ブルーレイに書き出すことしかできないため、HDD内から消去するとコピーはできなくなってしまう。
HDDの容量は限りがあるから、いつまでも残しておくことはできない。ブルーレイに書き出したものから、さらにコピーを取ることはできないので、傷つきやすいブルーレイが損傷したら、どうしようもなくなる。それを見越して、HDDから消去する前にバックアップとして複数枚のコピーを残しておかなくてはいけないことになる。書き込み用ブルーレイ・ディスクが、まだ高価であるため、その出費は痛い。
デジタルメディアの著作権が、このことに大きく関わっているのだが、無料放送にコピー制限を設けているのは日本だけだそうだ。それは放送局が、既存のビジネスモデルに固執して、守ろうとしているためだという。(詳しくは、小寺信良氏に聞く「ダビング10って、何が問題なんですか?」/ASCII.jp トレンド)
それに関連した記事を以下に。
NIKKEI NET 特集/デジタル社会に求められる新しい著作権とは
現状では「トレレイテッド・ユース」の考え方は、日本の放送局は拒絶している。
番組の冒頭に、注意事項として「ネットに配信することは違法です」というようなことを明記していたりする。
放送局は、そろそろ無料放送という方法を考え直すべきではないだろうか?
無料であるがゆえに、視聴率が気になり、視聴率稼ぎのためにねつ造や、各局横並びの番組内容になってしまうのではないだろうか。
有料放送であるなら、コピー制限を設けるのも納得がいく。ただし、有料放送ならCMはなしにしてほしいけどね。
有料放送も、番組ごとに購入するかどうかを選べるようにしてほしい。
デジタルとネット環境を併用すれば、そうした双方向の対処も可能なはずだ。
そうすれば、現状の視聴率のようにサンプリングとしてのデータではなく、どれだけ売れているかが実数としてわかるようになる。
著作権を振りかざしてユーザーを悪者扱いするのではなく、コピーフリーにしつつ、収益を上げていくビジネスモデルを構築するのが、次世代のテレビだろう。
「ダビング10」は、日本国内だけのローカルルールである。
世界基準という点からいえば、日本のユーザーは著作権者から虐げられ、海外のユーザーが有する権利を剥奪されているということだ。
そのことは、著作権者が国内ではユーザーの権利を制限し、海外では許容するというダブルスタンダードにもなる。
著作権を主張するのなら、世界基準で公正・平等であってもらいたい。
アニメに関していえば、新番組が40本もある。
多すぎだ(^_^;
とりあえず、第1話はチェックしているが、継続して見ようという気になる作品……つまり、面白そうな作品は少ない。
個別の作品については、後日書きたいと思うが、傾向として新鮮味に欠け、小粒ぞろいだ。多くは原作付きだが、その原作が古いものであったり、過去の作品の続編だったりする。
アニメとしてオリジナルの作品は少なく、これは制作側がリスクを避けているためだろう。原作で一定の人気があれば、リスクも少ないという考え方だ。だが、その原作となりうるマンガや小説も少なくなっているという。
テレビ放映だけで収益を上げるのではなく、のちにDVD化して商品として収益を上げるのが通例だが、これだけ量産すれば市場が飽和してしまうことは自明の理だ。
また、多くの作品がハイビジョン制作をしているが、ブルーレイ・レコーダーを持っていれば、ハイビジョン画質での録画が可能であり、市販される通常のDVDよりも映像品質が良いものが残せる。コレクターはDVDを買うかもしれないが、映像品質が放映時のハイビジョン画質より劣るDVDを買うことのメリットは少ない。
DVDからブルーレイへの移行期にある現在は、商品としてのDVDを売りにくい時期でもある。
新番組の中には、放映と同時進行でネット配信をする作品も出てきた。
映像的には劣化するが、地方で見られない人や、見逃した人にはいいのかもしれない。
デジタルメディアのコピー回数を制限する「ダビング10」は、6月から施行される。
しかし、この方法は、恩恵があるようでユーザーにとっては、あまりメリットのあるものではない。HDDに録画した番組から、直接ブルーレイに書き出すことしかできないため、HDD内から消去するとコピーはできなくなってしまう。
HDDの容量は限りがあるから、いつまでも残しておくことはできない。ブルーレイに書き出したものから、さらにコピーを取ることはできないので、傷つきやすいブルーレイが損傷したら、どうしようもなくなる。それを見越して、HDDから消去する前にバックアップとして複数枚のコピーを残しておかなくてはいけないことになる。書き込み用ブルーレイ・ディスクが、まだ高価であるため、その出費は痛い。
デジタルメディアの著作権が、このことに大きく関わっているのだが、無料放送にコピー制限を設けているのは日本だけだそうだ。それは放送局が、既存のビジネスモデルに固執して、守ろうとしているためだという。(詳しくは、小寺信良氏に聞く「ダビング10って、何が問題なんですか?」/ASCII.jp トレンド)
それに関連した記事を以下に。
NIKKEI NET 特集/デジタル社会に求められる新しい著作権とは
米国の著作権法に規定されているフェアユースとは、使用する目的がフェア(公正)であれば、著作物の複製をしてもよいという考え方です(※)。判例は古くからあります。フェアユースをめぐる最も有名な裁判は、日本の家電メーカーがVTRを開発、販売したとき、米国の映画会社が違法な複製録画を助ける装置だとしてその家電メーカーを訴えた、1984年の裁判です。しかし、番組の視聴時間をずらす「タイムシフト」はフェアユースに該当するとして、最高裁は著作権侵害を認めず、家庭用ビデオの違法化を阻止しました。フェアユース自体は、1976年に行なわれた米国著作権法の改正の際に条文化されています。
※米国著作権法第107条。フェアユースに該当するかは、(1)利用の目的と性格、(2)著作物の性質、(3)利用部分の量と重要性、(4)利用が潜在的市場に及ぼす影響、の4要件によって判断される
(中略)
フェアユースがスタートラインだとすると、米国はすでにその先へ進んでいます。コロンビア大学のティム・ウー教授が提唱している、「トレレイテッド・ユース(許容された使用)」という概念です。これは例えば、ユーチューブが持つ高いパブリシティー効果を得るために、ユーチューブに投稿された動画が明らかに著作権侵害であっても、権利者があえて動画の削除を要請せず、黙認する現象を指したものです。
現状では「トレレイテッド・ユース」の考え方は、日本の放送局は拒絶している。
番組の冒頭に、注意事項として「ネットに配信することは違法です」というようなことを明記していたりする。
放送局は、そろそろ無料放送という方法を考え直すべきではないだろうか?
無料であるがゆえに、視聴率が気になり、視聴率稼ぎのためにねつ造や、各局横並びの番組内容になってしまうのではないだろうか。
有料放送であるなら、コピー制限を設けるのも納得がいく。ただし、有料放送ならCMはなしにしてほしいけどね。
有料放送も、番組ごとに購入するかどうかを選べるようにしてほしい。
デジタルとネット環境を併用すれば、そうした双方向の対処も可能なはずだ。
そうすれば、現状の視聴率のようにサンプリングとしてのデータではなく、どれだけ売れているかが実数としてわかるようになる。
著作権を振りかざしてユーザーを悪者扱いするのではなく、コピーフリーにしつつ、収益を上げていくビジネスモデルを構築するのが、次世代のテレビだろう。
「ダビング10」は、日本国内だけのローカルルールである。
世界基準という点からいえば、日本のユーザーは著作権者から虐げられ、海外のユーザーが有する権利を剥奪されているということだ。
そのことは、著作権者が国内ではユーザーの権利を制限し、海外では許容するというダブルスタンダードにもなる。
著作権を主張するのなら、世界基準で公正・平等であってもらいたい。
(17:40)
2008年04月04日
喫煙は社会悪になっているようだ。
喫煙の害はわかるし、吸わないにこしたことはない。
しかし、喫煙者が皆肺ガンになるわけではなく、喫煙していなくても肺ガンになる場合もある。
その理由が遺伝子的にわかったというニュース。
肺がんリスク遺伝子発見=「喫煙量に関係」との指摘も−欧米3チーム(時事通信) - Yahoo!ニュース
このYahoo!のニュースの下には、コメント欄があり、いろいろな意見が書かれている。
「喫煙反対」が大勢であり、喫煙および受動喫煙の害悪を主張している。
だが、ちょっと待て。
以下のようなデータがある。
●喫煙によるガンの死亡率が、1.5倍〜2.5倍。
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/02/kit.html
●飲酒による飲酒関連ガンの死亡率が、毎日1合程度飲む場合で4倍〜5倍。
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/04/inshto.html
というデータがある。
喫煙もしくは受動喫煙で即死することはないが、飲酒運転や酩酊による転落事故などでは即死(当人だけではなく巻き込まれた人も)することがある。
リスクという観点からいえば、タバコよりも飲酒の方がリスクが高い一面がある。
それなのに、タバコは規制される方向に進み、飲酒にはタバコのような過度な規制がされることはない。
禁煙には賛成だが、同等かそれ以上のリスクがあると思われる飲酒の問題も論じてほしい気がする。
喫煙反対の意見を、「タバコ」を「酒」、「喫煙」を「飲酒」に置き換えてみたらどうだろう?
それなりに道理になるのだ。
飲酒運転による悲惨な事故があとを絶たない割には、飲酒は社会悪として見られないし、禁酒といった厳しい規制もされない。
「2005年の全国での飲酒運転取締件数は約14万件となり1日平均で380件超」(警察庁の発表)というのが過去のデータだ。2006年は13万件ほどに減ってはいるが。
けっして少なくない数字だと思うのだが……。
禁酒運動は……起こらないだろうな。
喫煙の害はわかるし、吸わないにこしたことはない。
しかし、喫煙者が皆肺ガンになるわけではなく、喫煙していなくても肺ガンになる場合もある。
その理由が遺伝子的にわかったというニュース。
肺がんリスク遺伝子発見=「喫煙量に関係」との指摘も−欧米3チーム(時事通信) - Yahoo!ニュース
この個人差は15番染色体の「長腕」と呼ばれる部分にあり、肺胞などにあるたんぱく質「ニコチン性アセチルコリン受容体」を構成する「CHRNA3」などの遺伝子がかかわる。2カ所のDNA塩基の種類が、肺がん患者では特定のタイプである割合が高かった。
このYahoo!のニュースの下には、コメント欄があり、いろいろな意見が書かれている。
「喫煙反対」が大勢であり、喫煙および受動喫煙の害悪を主張している。
だが、ちょっと待て。
以下のようなデータがある。
●喫煙によるガンの死亡率が、1.5倍〜2.5倍。
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/02/kit.html
●飲酒による飲酒関連ガンの死亡率が、毎日1合程度飲む場合で4倍〜5倍。
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/04/inshto.html
というデータがある。
喫煙もしくは受動喫煙で即死することはないが、飲酒運転や酩酊による転落事故などでは即死(当人だけではなく巻き込まれた人も)することがある。
リスクという観点からいえば、タバコよりも飲酒の方がリスクが高い一面がある。
それなのに、タバコは規制される方向に進み、飲酒にはタバコのような過度な規制がされることはない。
禁煙には賛成だが、同等かそれ以上のリスクがあると思われる飲酒の問題も論じてほしい気がする。
喫煙反対の意見を、「タバコ」を「酒」、「喫煙」を「飲酒」に置き換えてみたらどうだろう?
それなりに道理になるのだ。
飲酒運転による悲惨な事故があとを絶たない割には、飲酒は社会悪として見られないし、禁酒といった厳しい規制もされない。
「2005年の全国での飲酒運転取締件数は約14万件となり1日平均で380件超」(警察庁の発表)というのが過去のデータだ。2006年は13万件ほどに減ってはいるが。
けっして少なくない数字だと思うのだが……。
禁酒運動は……起こらないだろうな。
(00:00)










