諫山裕の仕事部屋〈blog〉
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コンピュータ

2008年06月13日

 昨今のネット事情やデジタルコミュニケーション事情の記事を読んでいて、いつも感じることがある。
 それは「既視感」だ。

 記事を書いている人の年齢や、デジタル環境との関わり方にもよるが、ある状況がつい最近になって現れたかのように論じている。
 以下の記事でも、既視感を感じた。
時代に取り残されそうな“バブル・オトコ”の苦悩:NBonline(日経ビジネス オンライン)
 頭では分かっているつもりでも、“ブログ”“mixi”“You Tube”“ニコニコ動画”と次々に現れる新しいデジタルコミュニケーションを使いこなすのは、今の若者たちのように容易ではありません。既に“自分は今の時代についていくのはもう無理だ”とギブアップしてしまっている人たちも少なくないでしょう。そんな中で我々“アラフォーなマーケッター”たちはこれからも、かなりのスピードで進化し続けていくであろう“新しいコミュニケーション”の一歩先を行くためには、日々の様々な努力が欠かせません。

 「アラフォー」とは現在40歳前後の世代のこと。
 私は少し上の世代だ。

 40歳で「自分は今の時代についていくのはもう無理だ」と思う感覚が、私とは違っている。私はそんなふうに感じことがない、というか今でも新しい技術や新しいデジタル世界観に興味津々だからだ。
 おそらく、私は元祖デジタル世代だと思う。
 初めてコンピュータに接したのは、高校1年の時、学科としてコンピュータを学んだときだった。
 1974年のことである。
 まだ、世の中にパソコンが登場する以前のことだ。
 ※参考→コンピュータの歴史(年表)

 当時のコンピュータは、ようやく銀行や大企業で導入されはじめた時期で、商用に使うものだった。
 学校にあったコンピュータは「ミニコン」と呼ばれていたが、それでも冷蔵庫くらいの大きさがあった。処理能力は現在に比べれば、恐ろしく貧弱だ。正確なスペックは覚えていないが、8ビット機でメモリはたぶん数百KB、システムの起動はカセットテープから読み込み(起動するのに30分くらいかかった)、コマンドの入力は電子タイプライター、データの入力は紙テープかマークシート、データの出力と保存は紙テープだった。ディスプレイはなくコンピュータのステータスは電子タイプライターが印字してはき出していた。
 プログラム言語はFORTRANかCOBOLで、ごく初歩的なものだ。
 授業の一環として、銀行のコンピュータルームに見学に行ったりしたが、広いフロアに巨大なコンピュータが何台も並び、オープンリールの磁気テープや、これまた大きな磁気ドラムがガンガン回っていた。それだけ巨大でも、現在の携帯ゲーム機ほどの処理能力はなかっただろう。

 参考の年表では、第4世代のコンピュータの時代だが、コンピュータを実用的に使う世代としては、70年代前半が最初の世代といってもいいと思う。
 以後、私はコンピュータの発展とともに成長したといってもいい。
 自宅にパソコンを導入したのも早かった。
 ※参照→最初に使ったパソコン、NEC PC-6601(1983年)
 これが私のパソコン初号機で、それから5〜6年ごとにパソコンを乗り換えていき、1991年頃からMacintoshを使い始めた。

 当初、コンピュータはネットワークで使うというシステムはなかった。単独の孤立した機器でしかなかったのだ。
 そこに電話回線を使って、データをやりとりするモデムが登場し、ネットワークの基礎が作られていった。
 すでに消滅してしまったパソコン通信は、ネットの第1世代だ。
 その後、インターネットが爆発的に普及することになったが、現在ネット特有の現象や問題として挙げられていることの多くは、パソコン通信時代にも規模や影響力は小さいながらも発生していた。
 それゆえ、私には「既視感」として感じられる。
 ※携帯電話に関する既視感はこちら→ネット時代特有の現象とはいえないもろもろのこと


 パソコン通信はマニアックな領域だったから、一般にはあまり注目されることはなかった。しかし、そこで起こっていたことは、現在のネット事情を十分に予見できるものだったと思う。言い換えれば、ネット時代を先取りした実験場だったのだ。
 その実験の成果を、インターネット時代が訪れたときに活かせなかったのは、残念なことだと思う。

 コンピュータとつきあい始めて、早34年。
 紙テープ時代は懐かしい青春時代でもあったが、マルチコアで64〜128ビット時代に突入したパソコンもまた魅力的だ。
 そろそろ新しいパソコンが欲しくなる時期なのだ(^_^)。

(01:24)

2008年06月12日

 ネットは悪い面ばかりが強調されるが、良い面だってたくさんある。
 ……ということを証明した、素晴らしい記事だ。
犯行予告収集サイト「予告.in」公開 「0億円、2時間で作った」 - ITmedia News
 矢野さんは11日夜、「増田寛也総務相が来年度予算の概算要求に、ネット上の犯行予告を検知できるソフトの開発費を盛り込む。費用は数億円かかる」という内容の報道を見て、「インターネットの仕組みを使えば、0億円で数時間でできる」と考え、実際に1人で2時間で作ったという。

 なんて素晴らしいんだ!
 個人のパワーだってこれだけのことができてしまう。
 政府がなにかをやるには、時間と金と人手がかかりすぎる。ボランティアのひとつだが、政府にしろ公的機関にしろ、もっと良識ある人々の知恵と力を信じてもいいのではないだろうか?
 政府は矢野氏の作ったものを活用して、より精度を高めていけばいい。そして、矢野氏に数億円でなくても妥当な利用料を払えば、即日運用できるではないか。

 民営化だけが「民」を活用することではない。
 民の中には、国民、市民も含めるべきだろう。

(13:31)

2008年06月04日

 多くの人が行き交う通りや駅構内近辺で、突然立ち止まったりのろのろと歩いている人が多くなった。
 朝夕の通勤ラッシュ時間帯に、人の流れが渋滞しているとき、その原因となっているのが「立ち止まる人」であることは少なくない。
 なぜ立ち止まっているかというと、ケータイ電話を使っているからだ。
 電話であれば話しながらでも歩けるが、メールの場合には無意識に立ち止まってケータイ画面を見入ってしまうようだ。
 自動改札の直前で立ち止まる人もいて、後ろを歩いているこっちがぶつかりそうになってしまうことも度々だ。
 そして、ケータイを見入っている人は、自分が立ち止まることで周囲に迷惑をかけていることにまったく気がついていない。

 多くの人が、ケータイを手に持って、画面をのぞき込んでいる。
 ホームで電車を待っているとき、電車に乗っているとき、歩きながら、自転車に乗りながら……。
 それほどまでにケータイが手放せないのか?

 これは、ケータイ中毒である。

 ヘビースモーカーが、常にタバコを吸っていないと落ち着かないように、ケータイを常に手に持ち見ていないと落ち着かないのだろう。
 大人だけではなく、子どもたちにもケータイ中毒は蔓延している。
 そんな記事。
小中学生ケータイ所持問題、報告書に異議あり | WIRED VISION
 確かに、子どもたちのケータイ利用で問題は少なくない。その要因は「メール」と「インターネット」だ。メールは、子どもたちの間では「即座に返答すること」が友情の証であり、返信が遅れればイジメの原因にもなりかねないという。「おやすみ」のたわいないメールから返信が繰り返され、寝不足になる生徒も後を絶たない。
(中略)
 メディアという点では、ケータイはテレビやラジオと一緒である。ならば、言い換えれば「小中学生はテレビの視聴禁止」というのと同じことになろう。

 子どもたちに限らず若い世代の大人でも、初めて触れる端末がケータイであり、もっとも身近な端末となったケータイが、思考や行動の原理になっている状態だろう。
 ようするに、ケータイという端末とのつきあい方、使い方が確立されていないのだ。
 電話機能だけのケータイだったなら、これほど中毒にはならなかったはずだ。電話という端末は、固定電話としてもっと古くからあったから、対処法がわかっていた。それが持ち運べるという便利さになっても、電話は電話である。相手につながらなければ、メッセージを伝えることはできない。留守電があってもたいした違いはない。
 しかし、メールだと、一方的にメッセージを相手に送れる。それを相手がいつ見るかはわからなくても、送った方は送信した時点でメッセージが伝わったと勘違いする。
 それが「即座に返答すること」といった、過剰な要求になる。

 こうしたことは、ケータイ以前にもあった。
 かつてのパソコン通信の時代でも、フォーラムやメールでレスポンスが遅いと、無視されているような錯覚をしたものだ。それは相手の都合を無視した、独善的な感覚だったのだ。
 そうした時代を通ってきた人たちには、メールは特別なものではなく、対処法も身についている。私の場合、メールの返信が数日後になることも珍しくないし、相手から返信も数週間後ということだってある。それでもぜんぜん気にならないのだ。本当に急いで連絡を取りたいときには、電話をかけるからだ。

 ケータイの便利さは、電子的な即時性が錯覚を生み、利己的な判断をもたらす。
 ケータイ中毒の原因は、相手を無視した自己完結の中で起きているともいえる。
 今は、過渡期なのだろう。
 ケータイをいつも手に持っていないと落ち着かない人たちは、まだ端末としてのケータイに適応・耐性ができていない。ケータイの使われ方も、徐々に淘汰されていって、エチケットやルールが作られていくだろう。
 固定電話が別に珍しいものではなくなったのも、大衆の中に浸透していったからだ。
 ただ、そこにあるだけ。
 現在のケータイは、まだまだ珍しくて面白い道具であり、使いこなしていないのが現状だと思う。

 余談だが、「小中学生はテレビの視聴禁止」というのは、昔、あったよ(^_^;
 私が小学生の頃、通っていた学校ではテレビの視聴時間を制限されていた。1日何時間テレビを見たかと、毎日記録して先生に提出しなければいけなかった。0時間……と、見ていない日があると、ほめられたりした。ローカルルールではあったが、そういう時代もあったのだ。

(17:52)

2008年05月27日

 iTunesには、歌詞を取り込む機能がある。
 だが、その機能はあまり使われていないだろう。
 「情報を見る」のメニューから入ると、歌詞のタブがある。そこの窓に、歌詞をテキスト入力すればいいことになっている。しかし、たくさんの楽曲の歌詞を、いちいち自分で入力するのは、大変な作業だ。

 アルバムジャケットについては、iTunesで入手可能なものは自動でダウンロードしてくれるが、歌詞については対応していない。
 私が買うCDは、iTunes storeにはないものが多いので、ジャケットはスキャナーで取り込んで貼り付けている。
 音楽を聴いていて、ときに歌詞が気になることがある。
 どういう歌詞なのか、聞き取れなかったりするからだ。
 そこで、歌詞を自動でダウンロードするプラグインがないかと探してみると……
 あるじゃないか(^_^)

 「Lyrics Master」というのが、それ。

 フリーソフトなのもありがたい。
 Lyrics Masterは、iTunesとの連携ができるようになっているので、歌詞のダウンロードが半自動化できる。
 対応している歌詞のダウンロードサイトも多いので、すべてのサイトにチェックマークを入れておけば、ヒット率も上がる。

 作動させたときの画面は以下。
Lyrics Master画面
 右のウインドウに歌詞が表示され、左のウインドウに検索結果が表示される。
 歌詞を探したい楽曲を再生状態にして、Lyrics Masterを起動し、「検索」ボタンを押す。すると、ヒットした曲が左のウインドウにリストされる。タイトルが同じ楽曲、もしくは同じ単語が含まれる楽曲が並ぶので、該当するものを選ぶ。リスト内に、歌詞の冒頭が表示されるので、わかりやすくなっている。
 「iTunesとの連携」と「連携設定モード」をチェックしていると、選択したものを確定すると、次の曲に自動的に移行し、検索を再開する。
 あとは、そのくり返し。

 たいていの曲は歌詞がヒットするが、ときにはヒットしない場合もある。タイトルにサブタイトルやバージョンコメントがついていたりすると、ヒットしないようだ。タイトルをシンプルにするとヒットする場合がある。それでもヒットしない場合は、ダウンロードサイトに歌詞が存在しないということになる。
 なお、歌詞がヒットしない場合は、次の曲に移行する。

 さて、歌詞のダウンロードはできたが、それを見るためには「情報を見る」で表示させないと見ることができない。
 これでは面倒だし、面白くない。
 簡単に表示する方法はないのか?……と探していて、見つけたのが、

 「Jacket」というプラグイン。

 これはMAC版しかないようなので、Windowsユーザーにはゴメン(^_^;
jacket表示画面 表示するとこんな感じで、ジャケットを表示して、そこに歌詞を一緒に表示してくれる。歌詞を表示させるには、Jacket画面でLキーを押す。
 曲が変わると、その曲のアートワークを表示して、歌詞も表示してくれる。もともとはアートワークを表示するプラグインのようだが、歌詞を表示できることが他のプラグインにはない特徴となっている。

 せっかくある「歌詞」の機能を活かすには、この2つのプラグインはなかなか便利である。

(14:40)

2008年05月24日

 iTunesの音質は、パソコンのオーディオアンプの特性に左右される。
 だが、オーディオに特化したオーディオ・コンポに比べれば、貧弱なのは当然だ。テレビチューナー付きのパソコンなども発売されているが、音質を重視したオーディオ・パソコンというのは見あたらない。
 オーディオ・コンポにパソコンと接続できる端子を装備したものは出ているが、使い勝手という点からみると、いまいち疑問符だ。
 iTunesはパソコン1台で、他のパソコン作業をしつつ音楽も聴けるのが最大のメリットなのだ。

 iTunesをいい音質で聴くためには、ヘッドホンを良いものにするだけでは限界がある。もとになるソースの音源が貧弱であれば、ヘッドホンで再生できる音も貧弱になるからだ。
 機械的なアンプはどうしようもないので、それをアプリケーションで処理する……というのが残された手段。
 iTunesにはイコライザとして、音質をある程度コントロールできる機能が備わっている。だが、それをどういじくっても、劇的に音質がよくなるわけではない。

 そこで、なにかいいものはないかと探していて見つけたのが……
 SRS iWOW という、iTunesのプラグインソフトだった。
 シェアウェアのソフトだが、体験版があるのでダウンロードして使ってみた。

 すげ〜! 音がぜんぜん違う!

 まさに劇的な変化だった。
 音質の向上だけではなく、サラウンド効果もあって音像が立体的になる。高音域の伸びが良くなり、中低音域もメリハリの効いたパンチのあるものになった。さらに、埋もれていたボーカルが際だつようになった
 貧弱なオーディオ回路が、ソフトでこれほど変わるとは思わなかった。
 これは絶対にオススメだ。

 SRS iWOWを起動すると、以下のような画面になる。(クリックで拡大)
iTunes+iWOW
 いくつかのプリセットがあるので、音楽に合わせて試してみるといい。
 細かい調整もできるが、プリセットでいい感じに調整されている。
 コントロール画面は、やや大きすぎて邪魔なのだが、右半分は隠すことができる。
 隠したのが次の画像。
iWOW最小パネル
 通常はこのパネルだけで十分だ。

 ちなみに、サンプル画像に私のiTunesのプレイリストが出ているので、なにを聴いているのかわかると思う(^^)。
 表示しているのはアニメ関係の楽曲だが、ロック関係にはけっこうヘビーなリストが並んでいる。
 持っているCDの約7割は海外のロックで、3割が日本の楽曲だ。

 ともあれ、SRS iWOWを導入することで、iTunesがまともなオーディオ機器になること請け合い!
 ぜひ、試してほしい。

(00:49)

2008年05月22日

 最近は、音楽を聴くときにはiTunesがメインになった。
 メインマシンとして使っているMac Mini(intel)が、パソコンであると同時に音楽再生マシンとなっている。
 従来からのオーディオ・コンポもあるが、ほとんど使わなくなってしまった。
 音質的には、コンポでCDを直に再生する方がいいことはわかっている。
 だが、iTunesの便利さに慣れてしまうと、CDをいちいち取り替えて聴くというコンポの使い勝手の悪さが大きな障害になった。

 マンション住まいということもあって、音はもっぱらヘッドホンで聴く。だから、ヘッドホンの音にはこだわってきた。とはいえ、使い勝手も重要で、コード付きの有線ヘッドホンだと、動ける範囲が制限されてしまうし、音楽を聴きながら作業をするのにもコードが邪魔になってしまう。
 自宅にいるときは、多くの時間をヘッドホンをして、音楽を聴きながら過ごしている。中学生の時以来、Rockに目覚めてから、ずっとながら族だった。音楽がないと落ち着かない。
 ワイヤレス・ヘッドホンは、赤外線が主流だった頃から、いろいろな機種を使ってきた。しかし、赤外線は障害物のない見通しでしか使えない。コードが体に絡みつかないというメリットはあっても、隣の部屋への移動はできない。
 数年前から無線方式のヘッドホンが登場した。
 最初に出したのはソニーだったと思うが、新製品ニュースを見て、速攻で予約注文した。(SONY ワイヤレス ステレオヘッドホンシステム MDR-RF5000K)
 SONY ワイヤレス ステレオヘッドホンシステム MDR-RF5000K

 これを使うようになって、自室から台所あるいはトイレまでヘッドホンをしたまま移動できるようになった。ただし、有効距離はカタログデータよりも短く、部屋の壁を2つ以上またぐと信号が途切れがちになる。電波出力の問題だろうが、もう少しパワーアップしてほしいものだ。
 これが発売された頃は、今ほどiTunesが世間を席巻していなかった。そのため、USB端子がなく、基本的にコンポに接続して使用することが前提となっていた。

 最近、新しいワイヤレス・ヘッドホンを購入した。
 それが「RATOC Wireless Digital Headphone REX-WHP1PX」だ。
 これも新製品ニュースを見て、即予約注文(^_^)
 このモデルは数量限定ということなので、欲しい人は早めに注文した方がいい。ラトックのサイトから直販されている。
 前出のソニーのMDR-RF5000Kが40mmドライバーユニットであるのに対して、ラトックのREX-WHP1PXは53mmドライバーユニットで一回り大きく、音質的にも中低音域の迫力で勝っている。
 そして、送信機にUSB端子があるので、パソコンに直接つなぐことができる。送信機の電力もUSB供給なので、電源の心配がない。
 ただ、難を言えば、ヘッドホン本体の充電器が差し込み式なので、ソニーのように置くだけの手軽さに比べるとスマートじゃない。

 音はヘッドホンを代えるだけで、ずいぶんと変わる。
 これはiPodのイヤホンにもいえることだが、音作りは各メーカー、各機種で驚くほど違っている。いろいろ試し聴きしてから選ぶといいが、店頭で試聴してもあまり参考にならない。自宅の環境とは違うため、比較ができないのだ。
 REX-WHP1PXも商品が到着して、最初に聴いたときは……
「うっ、音がやたらと硬い!」と思ったが、スピーカーやヘッドホンは、ある程度の時間鳴らして、音を馴染ませる必要がある(エージングという)。
 1週間ほど使った頃に、音も落ち着いてきて、今ではかなり快適な音になった。
 やはり大口径のドライバーユニットなので、ロック系のベースやドラムの低音域の迫力が出てくる。
 もうひとつ難を言えば、ソニーのに比べて、電波の到達距離が壁によってかなり影響を受ける。それもそのはずで、ソニーが見通し距離30mなのに対して、ラトックは10mになっている。出力が3分の1ということだろう。

 ともあれ、iTunes環境でのワイヤレス・ヘッドホンとしては、REX-WHP1PXは価格的にも手頃で、ベストな選択ではないかと思う。
 ……と、パイオニアが新しいワイヤレス・ヘッドホンを出すというニュースが……。
 しかも、価格が4万円くらい。どんな音なんだろう?
 いい音への欲求はつきないので、買いたくなってしまう(^_^;

(17:41)

2008年05月02日

 ふだん、ほとんど考えることのない、仮定の問題。
 自分が死んだあと、ブログやサイトに書き残したコンテンツはどうなるのだろうか?……という話。
 そういえば、そんなことまで考えてブログやサイトを作ってはいないなーと思った。
 ドメインは契約期間中は残るだろうけど、更新しなければなくなる。
 サーバーも契約期間中は残るだろうけど、切れたら家族が更新しない限りは消えてなくなる。
 書きためた日々の記録や想いは、それとともに電脳空間からも葬られる。
 ある意味、二度死ぬことに等しい気がしてきた。
 そんなことを気づかせてくれた記事。
鬼籍のマイミク | WIRED VISION
これから日本でも本格化するであろう団塊の世代向けの SNS ビジネスに訃報伝送機能は欠かせないのでしょうし、遺族に渡す電子金庫あたりもそうした SNS の機能の一つに入りそうです。
(中略)
しかし……とここまできて、自身のサイト、文章にそこまでこだわる理由は何だろうとふと考えてしまいます。死んだ後もお前の駄文をありがたがって読んでくれる人がいると思ってんのかよ、と突っ込まれそうです。

 この記事を読んだあと、ふと、亡くなった友人のことを思い出した。
 私よりも年下だったが、古くからの友人で、同郷でもあった。田舎で私が主宰していたマンガサークルに、彼が入会してきたことで知り合った。
 私の方が少し早く上京して、のちに彼も上京してきた。同じ業界で仕事をするようになり、ときに一緒に仕事をすることもあった。
 彼の名前は「西崎まりの」
 メジャーになることはなかったが、知る人ぞ知る個性的な絵描きだった。
 彼の名前を検索してみると……
 彼を知る人たちによる、記事がいくつか出てきた。
 亡くなって4年になるが、彼の名前はまだ「生きている」と感じる。
 不思議な感覚だ。
 身近な人間だからというのもあるが、彼のことを記した「記憶」がネット上に存在しているという事実が、生きている彼を想像させる。

 「西崎まりの」のことを記したブログがあった。
【西崎まりのに花束を。-浦嶋嶺至、朋友への手紙-】
 彼が生きていた時代の、彼を取り巻く業界と人間関係のことが書かれていた。
 浦嶋氏との面識はないが、もしかしたら顔を合わせたことはあるかもしれない。というのも、私も当時、近いところで仕事で関わっていたからだ。ブログ中の登場人物の何人かは、私も面識があった。
 記事を読みながら、当時のことを懐かしく思い出した。
 仕事の関わりでいえば、「サイバーコミック」「エリアルコミック」のカバーデザインや記事ページのデザインは、私がやっていた。ゼネプロが編集として関わった書籍やコミック、PCゲームのカバーデザインのいくつかも手がけた。そして、西崎氏の絵をキャラクターとした、スーファミのゲーム「サイコドリーム」のマニュアルのデザインも、彼から依頼されて制作した。
 また、漫画情報誌『ぱふ』の同人誌コーナーのレビューを、1986年頃から3年間くらい担当していた。
 この頃は、西崎氏とよく会っていた。
 「なにもかも、みな懐かしい」……思い出だ。

 実体としての「死」と、ネット上の人格の「死」は、必ずしもイコールではないということだろう。

(14:23)

2008年04月24日

 ネット時代になって、ネット上やそれを取り巻く環境で起きる社会現象を、ネット時代特有の現象として取り上げることも多くなった。
 たとえば、誰もがネットを利用できるようになって、個人でも情報を発信できる時代となって、マスメディアや出版社などを介さずに意見を主張したり作品を発表できる。
 そのことが、旧来のメディアや出版社のビジネスモデルを破壊することになる……といわれている。You Tubeやケータイ小説に代表される現象だ。

 あるいは、次の記事のようなこと。
仲良くするのはこんなに難しいのか〜『友だち幻想 人と人との〈つながり〉を考える』 菅野仁著(評:澁川祐子):NBonline(日経ビジネス オンライン)
“携帯電話の無料通話サービスを利用して、友だちや彼氏と話もせずに携帯電話をかけっ放しにしている中高生がいる”

 という話が、最近ネット上で話題になった。通話状態の携帯を放置したまま、ゴソゴソという生活音だけをお互いにただ流しているというのだ。現実にかけっ放しをしている中高生がどれだけいるか、真偽のほどは定かじゃない。だが、正直「あり得るだろうな」と思った。

 これらのことが、ネット時代特有のことかというと……
 じつは違う。
 ネット時代以前にもあったことの、ネット版焼き直しなのだ。

 『個人でも情報を発信できる』ということに関しては、ネット時代以前では「同人誌」がその役割を担っていた。
 現在でも、コミケに代表される同人誌即売会はあるが、ネット時代以前と現在では、その役割や意義はまったく違っている。
 かつての同人誌は、個人が作品や論評記事を発表する、唯一の媒体だった。自費出版するための費用がバカにならなかったが、とにかく発表することが可能だったのだ。同人誌即売会は、その発表の舞台(売り場)として発生した。
 ただし、本という形での頒布だったため、行き渡る人数には限界があった。印刷コストの問題もあり、せいぜい100〜200人に頒布できれば御の字だった。売れたからといって儲けになることはなく、多くの場合、赤字だ。
 それでも、出版社を介することなく、自分たちの作品を読んでもらえる貴重な機会であった。
 初期の頃の同人誌即売会は、参加している人が作品の書き手であり、買い手でもあった。私が初めて行ったコミケは、まだ参加サークル数が800くらいで、晴海の会場の1つを使い、その会場内に余裕があるような状態だった。かれこれ、25年くらい前の話。
 ネットという限りなくコストがかからないインフラが整って、個人が情報を発信するための垣根が低くなった。そういう意味では、あまりに恵まれた環境だ。
 Mixiなどのコミュニティは、かつての同人誌即売会という小さなコミュニティに通じるものがある。大きな違いは、かかわる人間の数が桁違いなのと、レスポンスを得るための通信手段が素早いことだ。
 郵便の手紙でコミュニケーションを取っていたのが電子メールになり、作品や記事を読んでもらえる規模が数百人から数万人になった。
 そこに時代の変化を感じるものの、基本的な構造は変わらず、私から見ればネット版に置き換えただけである。
 言い換えれば、ネットによる総オタク化である。

 『通話状態の携帯を放置』についても、私には既視感のある現象だ。
 それは「アマチュア無線」だ。
 電波の届く範囲という制約はあったものの、遠く離れた友人と自宅からいつでも話ができた。通信コストは無線機の電気代くらいでほとんどかからない。学生時代は、自宅で勉強しながら、友人とチャンネルを合わせて送信をON状態にしていた。つまり、特に話をするわけでもなく、つながりっぱなしである。
 ただ、無線は送受信が一方通行なので、同時に送信⇔受信状態にするには、無線機が2つ必要になる。たいていの場合、無線機は周波数帯の違う数台を持っていたので、これが可能だった。
 そのときの感覚は、時間の共有だった。
 部屋の中ではひとりだが、無線機を通じて向こうに友人がいる……という、ごく単純な事実が孤独ではないという認識を生んだ。
 深夜になり、「おれ、そろそろ寝るぜ」といって、無線機を切るときは、どっちが先に切るかというので、なかなか互いに切れなくなることがあった。そんなときは、なにがしかの会話を始めて、結局、朝まで語り明かしたということもあった。
 ネットや携帯電話では、通信範囲に制限がなくなったという違いだろう。
 アマチュア無線にも、同好会のようなコミュニティがあった。OFF会というのも、このころからあり、ネットでのOFF会もルーツはアマチュア無線かもしれない。

 前出の記事では、「つながり」に関連して「傷つきやすい若者」ということに関して、次のように書かれている。
 現代社会は欲望の対象の幅が広がり、なおかつ欲望を満たそうとするときの障害も少ない。そのことが、〈あり余る選択肢の存在が個々の魅力を減退させ〉ている。つまり、どの選択肢を選んだとしても「もっといい選択肢があったのではないか」と考えずにはいられない。そうした状況が、自己肯定感のなさにつながり、現代特有の生きづらさを引き起こしていると指摘する。

 それも一理あると思うが、私は少し違う見方をしている。
 ネットでのコミュニケーション方法は、主として「テキスト」である。
 メール、掲示板、SNSやプロフにしても、おもにテキストでメッセージの交換が行われる。
 文章を書くという、誰にでもできることではあるが、高度なテクニックを必要とする不完全な手段によって、ときに誤解や意図を明確に伝えられないことになってしまう。
 自分の意思を言葉で書くことは、じつは難しい。また、書かれていることの真意をくみ取ることも難しい。
 安易なようで、とても難しい手段でコミュニケーションを成立させようとするから、ちゃんとしたコミュニケーションが成り立たない。
 ブログの炎上や、プロフでのトラブルは、その不完全さ、稚拙さから事態が悪化する。
 これが会話によるコミュニケーションであれば、言葉足らずであったとしても、ニュアンスが伝わったり、何度もリアルタイムで説明を試みることで、ある程度の真意を伝えられる。
 アマチュア無線で、交信中に「炎上」するなんてことはありえない。喧嘩になることはあっても、不特定多数を巻き込むトラブルには発展しない。それはコミュニケーションが完結するからだ。
 ネットは、コミュニケーションが完結しない。延々とすれ違いの応酬が続く。それはテキストという不完全な手段に頼っているからだ。
 そもそものコミュニケーション手段としてのテキストが不完全でもあるにもかかわらず、成立しないコミュニケーションに対して疎外感や勝手な思いこみをしてしまうこと自体が問題なのだと思う。

 現在のネットは、機器やインフラの環境が限られているために、テキスト主体にならざるをえない。つまりは、未成熟なメディアということだ。
 映画「マトリックス」の世界のように、バーチャルでありながらバーチャルであることを意識しないような世界が実現したなら、現在のネットの問題などは、ネット世界が未成熟だったがゆえの問題だったと片付けられてしまうのだろう。

(19:06)

2008年04月09日

 ケータイ小説からヒット作が出たり、ブログや掲示板から話題になって出版されたりと、デジタルメディアのコンテンツを出版社が本のネタとして探すようになった。
 柳の下にドジョウが……何匹出てくるかという話だろう。
 とはいえ、「電車男」や「恋空」ほどヒットした作品は少なく、2匹目、3匹目のドジョウは大物ではなかった。
 それでも次なる獲物を発掘しようと、躍起になっているようだが、青田買いの様相にもなっている。

 現状の構造的なイメージは、「メジャーな出版社」が上位に君臨し、個人が発信する「デジタルコンテンツ・ユーザー(書き手)」が下位にある。
 無料の小説サイトで好評な作品を、出版社が拾い上げて出版するという形だ。
 無料のサイトに掲載している時点では、書き手に収入は発生しない。そこにあるのは、書き手の「書きたい」「読んでもらいたい」という無報酬の欲求であり、自己表現だろう。
 本来なら、サイト内でヒットしていれば、書き手にとっては当初の目的は達成されている。
 そこに出版社が、これは売れると商品化を持ちかけるわけだ。

 音楽や映画がネットでも配信されているように、書籍もデジタル化してネットで配布されるようになった。もともと、インターネットの基本は「テキスト」であるから、小説などのテキストはネットに載せやすいものだった。
 だが、商品としてのデジタル小説(有料コンテンツ)は、現在のところ、あまり成功しているとはいえない状況だ。
 ネット発のヒット作は、無名の個人が発信して多くの支持を集めたものだ。
 出版社発のデジタル・コンテンツでヒットした作品は少ない。出版社は「本」として形のあるものを出すことに固執するあまり、デジタル・コンテンツとしての販売方法や販売ルートを開拓することを怠ってきたからだろう。
 小説をデジタル・コンテンツとして出す場合には、PDFや独自の体裁を用意したリーダーによって配布される。データとしての配布であるため、出版コストは大幅に軽減できるメリットがあるにもかかわらず、出版社はデータ配布に積極的ではない。
 音楽がデータ配信され、iTunesが売り上げでトップになっている現在。音楽の販売方法はネット配信が主流になりつつある。
 それに比べると、出版界は古い体質から抜け出せないでいる。
 出版社の不振や倒産のニュースも、よく見かける。出版点数だけは相変わらず多いものの、ヒット作が少なくなっている。

 それに関連した記事を以下に。
おもしろさは誰のものか:「出版界、このままでは崩壊する」――ダイナミックプロ、絶版ラノベ・SFを電子書籍化 (2/2) - ITmedia News
 作家は低収入で不安定な職業だという。「小説だけ書いて食べている人は、日本に5人もいないのではないか。小説家や漫画家には、JASRAC(日本音楽著作権協会)のように権利を集中管理して収益を上げている団体もない。『先生』などと呼ばれるが、作家は実質、出版社の下請けでしかない」と幸森さんは話す。

 例えば、半年かけて小説を書き下ろし、700円の文庫で1万冊売るとする。印税率を10%で計算すると、印税収入は70万円。年2冊書くとして年収は140万円。純文学の作家なら、1〜3年に1冊というペースも珍しくない。「ある作家が税務署に確定申告に行ったら、『生活保護を受けたほうがいい』と言われた、なんて笑い話もある」

 友人・知人に作家や漫画家が何人かいるが、それ専業で食べている人は少ない。
 ことに小説だけで食える人は少ないようだ。自分のオリジナルの小説ではなく、ゲームやアニメのノベライズで収入を得ている人もいる。それでも「書く仕事」があるだけマシだろう。
 小説の新人の場合、初版で1万部というのは恵まれている方だ。ジャンルや作品内容にもよるが、5千部程度というのも珍しくない。そして、多くの場合、再版されることはない。
 作家として食っていくことは、並大抵のことではないのだ。

 印税率が10%しかないのは、出版にかかるコストが高いためだ。
 デジタル出版であれば、印刷にかかるコストはゼロである。印刷会社は打撃かもしれないが、作家や出版社にとっては自分の取り分を増やせることになる。
 在庫の山を抱える必要もなく、必要なだけデータをコピーすればいいだけで、無駄な出版をしなくて済む。
 ちなみに、出版物の印税は、基本的に出版部数に対して支払われるので、実売数がどのくらいかは関係ない。返本され、売れ残ったとしても、作家には発行部数分の報酬は支払われる。それは作家にとってはありがたいことだが、返本される出版社にとっては赤字である。効率の悪い販売方法でもあるのだ。

 デジタル・コンテンツとしての印税はどのくらいかというと、「まぐまぐプレミアム」の場合には、実売単価に対して60%である。
 上記の記事では、「作家に30%、イラストレーターに5%を配分する」という。
 イラストレーターにも配分するというのが、新しい試みだ。通常、文庫のカバーのイラストを描いても、印税としてではなく、その仕事に対していくらという形だからだ。その場合、再版されても、イラストレーターには分配はされない。再版、再使用の場合の契約を取り交わすこと自体がないからである。

 本の出版よりも、デジタル・コンテンツの印税率の方が多いのは当たり前だろう。
 とはいえ、30%でも少ない気がする。まだ試行段階で、利益が見込めないからだろうが、作家の取り分が少なくとも半分はあってしかるべきだ。
 その点、「まぐまぐプレミアム」は、書き手(発行者)主体のコンテンツ配布になっている。
 実際、「まぐまぐプレミアム」で有料メルマガを発行し、それで生活できている発行者が少ないながらもいる。それは印税率が高いからだ。
 仮に、月500円の購読料で、1000人の読者がいれば、月収は30万円になり、そこそこの生活はできる計算だ。
 本の出版の場合、この程度の売り上げでは、500円×1000部×10%=5万円にしかならない。
 この差は歴然としている。

 小説を始めとした「デジタル・テキスト・コンテンツ」は、まだその売り方、効率のいい利益の上げ方のビジネスモデルが確立していない。
 出版社がそのビジネスモデルを確立するのか、あるいはネット業界が確立するのか……。
 そこにはビジネスチャンスがあると思うのだが……。

(17:01)

2008年04月08日

 4月になり、春の新番組が続々と始まっている。
 アニメに関していえば、新番組が40本もある。
 多すぎだ(^_^;
 とりあえず、第1話はチェックしているが、継続して見ようという気になる作品……つまり、面白そうな作品は少ない。
 個別の作品については、後日書きたいと思うが、傾向として新鮮味に欠け、小粒ぞろいだ。多くは原作付きだが、その原作が古いものであったり、過去の作品の続編だったりする。
 アニメとしてオリジナルの作品は少なく、これは制作側がリスクを避けているためだろう。原作で一定の人気があれば、リスクも少ないという考え方だ。だが、その原作となりうるマンガや小説も少なくなっているという。
 テレビ放映だけで収益を上げるのではなく、のちにDVD化して商品として収益を上げるのが通例だが、これだけ量産すれば市場が飽和してしまうことは自明の理だ。
 また、多くの作品がハイビジョン制作をしているが、ブルーレイ・レコーダーを持っていれば、ハイビジョン画質での録画が可能であり、市販される通常のDVDよりも映像品質が良いものが残せる。コレクターはDVDを買うかもしれないが、映像品質が放映時のハイビジョン画質より劣るDVDを買うことのメリットは少ない。
 DVDからブルーレイへの移行期にある現在は、商品としてのDVDを売りにくい時期でもある。
 新番組の中には、放映と同時進行でネット配信をする作品も出てきた。
 映像的には劣化するが、地方で見られない人や、見逃した人にはいいのかもしれない。

 デジタルメディアのコピー回数を制限する「ダビング10」は、6月から施行される。
 しかし、この方法は、恩恵があるようでユーザーにとっては、あまりメリットのあるものではない。HDDに録画した番組から、直接ブルーレイに書き出すことしかできないため、HDD内から消去するとコピーはできなくなってしまう。
 HDDの容量は限りがあるから、いつまでも残しておくことはできない。ブルーレイに書き出したものから、さらにコピーを取ることはできないので、傷つきやすいブルーレイが損傷したら、どうしようもなくなる。それを見越して、HDDから消去する前にバックアップとして複数枚のコピーを残しておかなくてはいけないことになる。書き込み用ブルーレイ・ディスクが、まだ高価であるため、その出費は痛い。
 デジタルメディアの著作権が、このことに大きく関わっているのだが、無料放送にコピー制限を設けているのは日本だけだそうだ。それは放送局が、既存のビジネスモデルに固執して、守ろうとしているためだという。(詳しくは、小寺信良氏に聞く「ダビング10って、何が問題なんですか?」/ASCII.jp トレンド
 それに関連した記事を以下に。
NIKKEI NET 特集/デジタル社会に求められる新しい著作権とは
米国の著作権法に規定されているフェアユースとは、使用する目的がフェア(公正)であれば、著作物の複製をしてもよいという考え方です(※)。判例は古くからあります。フェアユースをめぐる最も有名な裁判は、日本の家電メーカーがVTRを開発、販売したとき、米国の映画会社が違法な複製録画を助ける装置だとしてその家電メーカーを訴えた、1984年の裁判です。しかし、番組の視聴時間をずらす「タイムシフト」はフェアユースに該当するとして、最高裁は著作権侵害を認めず、家庭用ビデオの違法化を阻止しました。フェアユース自体は、1976年に行なわれた米国著作権法の改正の際に条文化されています。
※米国著作権法第107条。フェアユースに該当するかは、(1)利用の目的と性格、(2)著作物の性質、(3)利用部分の量と重要性、(4)利用が潜在的市場に及ぼす影響、の4要件によって判断される

(中略)

フェアユースがスタートラインだとすると、米国はすでにその先へ進んでいます。コロンビア大学のティム・ウー教授が提唱している、「トレレイテッド・ユース(許容された使用)」という概念です。これは例えば、ユーチューブが持つ高いパブリシティー効果を得るために、ユーチューブに投稿された動画が明らかに著作権侵害であっても、権利者があえて動画の削除を要請せず、黙認する現象を指したものです。

 現状では「トレレイテッド・ユース」の考え方は、日本の放送局は拒絶している。
 番組の冒頭に、注意事項として「ネットに配信することは違法です」というようなことを明記していたりする。

 放送局は、そろそろ無料放送という方法を考え直すべきではないだろうか?
 無料であるがゆえに、視聴率が気になり、視聴率稼ぎのためにねつ造や、各局横並びの番組内容になってしまうのではないだろうか。
 有料放送であるなら、コピー制限を設けるのも納得がいく。ただし、有料放送ならCMはなしにしてほしいけどね。
 有料放送も、番組ごとに購入するかどうかを選べるようにしてほしい。
 デジタルとネット環境を併用すれば、そうした双方向の対処も可能なはずだ。
 そうすれば、現状の視聴率のようにサンプリングとしてのデータではなく、どれだけ売れているかが実数としてわかるようになる。
 著作権を振りかざしてユーザーを悪者扱いするのではなく、コピーフリーにしつつ、収益を上げていくビジネスモデルを構築するのが、次世代のテレビだろう。

 「ダビング10」は、日本国内だけのローカルルールである。
 世界基準という点からいえば、日本のユーザーは著作権者から虐げられ、海外のユーザーが有する権利を剥奪されているということだ。
 そのことは、著作権者が国内ではユーザーの権利を制限し、海外では許容するというダブルスタンダードにもなる。
 著作権を主張するのなら、世界基準で公正・平等であってもらいたい。

(17:40)