諫山裕の仕事部屋〈blog〉
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小説

2008年04月09日

 ケータイ小説からヒット作が出たり、ブログや掲示板から話題になって出版されたりと、デジタルメディアのコンテンツを出版社が本のネタとして探すようになった。
 柳の下にドジョウが……何匹出てくるかという話だろう。
 とはいえ、「電車男」や「恋空」ほどヒットした作品は少なく、2匹目、3匹目のドジョウは大物ではなかった。
 それでも次なる獲物を発掘しようと、躍起になっているようだが、青田買いの様相にもなっている。

 現状の構造的なイメージは、「メジャーな出版社」が上位に君臨し、個人が発信する「デジタルコンテンツ・ユーザー(書き手)」が下位にある。
 無料の小説サイトで好評な作品を、出版社が拾い上げて出版するという形だ。
 無料のサイトに掲載している時点では、書き手に収入は発生しない。そこにあるのは、書き手の「書きたい」「読んでもらいたい」という無報酬の欲求であり、自己表現だろう。
 本来なら、サイト内でヒットしていれば、書き手にとっては当初の目的は達成されている。
 そこに出版社が、これは売れると商品化を持ちかけるわけだ。

 音楽や映画がネットでも配信されているように、書籍もデジタル化してネットで配布されるようになった。もともと、インターネットの基本は「テキスト」であるから、小説などのテキストはネットに載せやすいものだった。
 だが、商品としてのデジタル小説(有料コンテンツ)は、現在のところ、あまり成功しているとはいえない状況だ。
 ネット発のヒット作は、無名の個人が発信して多くの支持を集めたものだ。
 出版社発のデジタル・コンテンツでヒットした作品は少ない。出版社は「本」として形のあるものを出すことに固執するあまり、デジタル・コンテンツとしての販売方法や販売ルートを開拓することを怠ってきたからだろう。
 小説をデジタル・コンテンツとして出す場合には、PDFや独自の体裁を用意したリーダーによって配布される。データとしての配布であるため、出版コストは大幅に軽減できるメリットがあるにもかかわらず、出版社はデータ配布に積極的ではない。
 音楽がデータ配信され、iTunesが売り上げでトップになっている現在。音楽の販売方法はネット配信が主流になりつつある。
 それに比べると、出版界は古い体質から抜け出せないでいる。
 出版社の不振や倒産のニュースも、よく見かける。出版点数だけは相変わらず多いものの、ヒット作が少なくなっている。

 それに関連した記事を以下に。
おもしろさは誰のものか:「出版界、このままでは崩壊する」――ダイナミックプロ、絶版ラノベ・SFを電子書籍化 (2/2) - ITmedia News
 作家は低収入で不安定な職業だという。「小説だけ書いて食べている人は、日本に5人もいないのではないか。小説家や漫画家には、JASRAC(日本音楽著作権協会)のように権利を集中管理して収益を上げている団体もない。『先生』などと呼ばれるが、作家は実質、出版社の下請けでしかない」と幸森さんは話す。

 例えば、半年かけて小説を書き下ろし、700円の文庫で1万冊売るとする。印税率を10%で計算すると、印税収入は70万円。年2冊書くとして年収は140万円。純文学の作家なら、1〜3年に1冊というペースも珍しくない。「ある作家が税務署に確定申告に行ったら、『生活保護を受けたほうがいい』と言われた、なんて笑い話もある」

 友人・知人に作家や漫画家が何人かいるが、それ専業で食べている人は少ない。
 ことに小説だけで食える人は少ないようだ。自分のオリジナルの小説ではなく、ゲームやアニメのノベライズで収入を得ている人もいる。それでも「書く仕事」があるだけマシだろう。
 小説の新人の場合、初版で1万部というのは恵まれている方だ。ジャンルや作品内容にもよるが、5千部程度というのも珍しくない。そして、多くの場合、再版されることはない。
 作家として食っていくことは、並大抵のことではないのだ。

 印税率が10%しかないのは、出版にかかるコストが高いためだ。
 デジタル出版であれば、印刷にかかるコストはゼロである。印刷会社は打撃かもしれないが、作家や出版社にとっては自分の取り分を増やせることになる。
 在庫の山を抱える必要もなく、必要なだけデータをコピーすればいいだけで、無駄な出版をしなくて済む。
 ちなみに、出版物の印税は、基本的に出版部数に対して支払われるので、実売数がどのくらいかは関係ない。返本され、売れ残ったとしても、作家には発行部数分の報酬は支払われる。それは作家にとってはありがたいことだが、返本される出版社にとっては赤字である。効率の悪い販売方法でもあるのだ。

 デジタル・コンテンツとしての印税はどのくらいかというと、「まぐまぐプレミアム」の場合には、実売単価に対して60%である。
 上記の記事では、「作家に30%、イラストレーターに5%を配分する」という。
 イラストレーターにも配分するというのが、新しい試みだ。通常、文庫のカバーのイラストを描いても、印税としてではなく、その仕事に対していくらという形だからだ。その場合、再版されても、イラストレーターには分配はされない。再版、再使用の場合の契約を取り交わすこと自体がないからである。

 本の出版よりも、デジタル・コンテンツの印税率の方が多いのは当たり前だろう。
 とはいえ、30%でも少ない気がする。まだ試行段階で、利益が見込めないからだろうが、作家の取り分が少なくとも半分はあってしかるべきだ。
 その点、「まぐまぐプレミアム」は、書き手(発行者)主体のコンテンツ配布になっている。
 実際、「まぐまぐプレミアム」で有料メルマガを発行し、それで生活できている発行者が少ないながらもいる。それは印税率が高いからだ。
 仮に、月500円の購読料で、1000人の読者がいれば、月収は30万円になり、そこそこの生活はできる計算だ。
 本の出版の場合、この程度の売り上げでは、500円×1000部×10%=5万円にしかならない。
 この差は歴然としている。

 小説を始めとした「デジタル・テキスト・コンテンツ」は、まだその売り方、効率のいい利益の上げ方のビジネスモデルが確立していない。
 出版社がそのビジネスモデルを確立するのか、あるいはネット業界が確立するのか……。
 そこにはビジネスチャンスがあると思うのだが……。

(17:01)

2008年03月15日

 直木賞作家といえば、プロの作家の中でも、高い地位と名誉を与えられた人のはず。
 しかし、現実にはその自覚がないのか、選ぶ方が間違っているのか、ときどきふさわしくない人がいるようだ。
 そんな記事。
直木賞作家が無断使用 謝罪、連載打ち切り(産経新聞) - Yahoo!ニュース
 直木賞作家の熊谷達也さんが月刊文芸誌「小説すばる」(集英社)に発表した小説に、アフガニスタンなどの紛争地取材で活躍するフォトジャーナリスト、長倉洋海さんの著書から表現などを無断で使用していたことが15日、分かった。同誌4月号に経緯と「お詫び」が掲載された。

 これがプロのすることなのだろうか?
 猫殺しを正当化した直木賞作家もいたし、直木賞作家って非常識な人しか取れないのだろうかと思ってしまう。
 ある意味、作家は凡人離れしているのだろうから、奇人変人が多いのかもしれない。
 それが作品の中だけならまだいいが、度が過ぎると人間性を疑う。
 それにしても、盗作はプロが一番やっちゃいけないことだ。
 こういうことがあっても、直木賞作家という肩書きは剥奪されることはないのだろうね。

(21:17)

2007年10月27日

 リアルとバーチャルの考えるとき、両者の違いをどう捉えるか?
 その概念は、視点がどこにあるかで違ってくるように思う。
 いくつかのモデルが考えられるわけだが、4つのモデルを図にしてみた。
リアルとバーチャルの概念図※クリックで拡大

(1)一般的と思われるイメージ(左右分離モデル)
 左右の対局にリアルとバーチャルがあり、明確に分かれている場合。その中間に曖昧なグレーゾーンがある。
 「現実と仮想世界(空想)の区別が……」という大局的な発想をするときは、このモデルで考えられている。ある境からこちらがリアル、向こうがバーチャルと分け、中間にはどちらともつかないグレーゾーンがある。
 わかりやすい反面、ある事柄について白黒をはっきりさせないと納得できないという強引さがある。テレビのコメンテーターが、ある事件に関して「現実と空想」を語るときは、だいたいこのモデルだ。理解に苦しむ言動や行動に対して、整合性を見いだそうとするときに当てはめる手法でもある。
 この場合、リアルな世界が厳然として存在し、そこから外れた世界がバーチャルとなる。一見、論理的なのだが、リアルな世界の前提はどういう立場に立つかで変わる。

(2)視点の異なるイメージ(多重集約モデル)
 自分を中心に、周囲の人々の視点から見た「私」が存在し、それぞれが重なり合った部分がリアルとして認識される場合。この場合、重なり合う情報によって、リアルの像が変わる。
 Aがもっとも情報が重複し、すべての視点から見て共通したリアル像になる。
 世界を認識するのは個人であるから、人数分だけ認識している世界がある。それぞれにそれぞれの視点で見ていて、重複している部分が共通認識としてリアルとなる。 言い換えれば、多数決のリアルだ。ある人物に対して、「証言」として語られる人物像が、その人のリアルであると考えられる。
 この場合のリアルは相対的で、新たな視点が加わることで、リアルの認識が変わる。

(3)バーチャルの中にリアルが内包されるイメージ(内包モデル)
 リアルがバーチャルの世界に包まれている場合。逆説的に、バーチャルの一部がリアルであると考える。
 脳のイメージする世界が認識できる世界であるから、世界の基本はバーチャルである。その中から「現実」として受け止めるのは、事実として現実感がある部分だけ。その事実の認定には、客観的な観測が必要になる。客観的とは、多数の視点から見た場合の、共通認識であり追試が可能な事象ということになる。
 映画やゲームはバーチャルではあるが、俳優が演じているという部分はリアルであるし、ゲームのキャラクターをプレイヤーが動かしているという部分もリアルである。
 つまり、バーチャルの中にリアルが散りばめられていて、世界が成り立っているとも考えられる。
 テレビ番組のねつ造問題は、部分部分はリアルだが、全体として編集するとウソになる。これは意図的に編集するという過程で、部分のリアルをつなぐ接着剤がバーチャルであり、組み立てられたものはリアル性が薄れてバーチャルに変容する。

(4)複数のリアルとバーチャルがリンクしているイメージ(多元連立モデル)
 複数のリアル像とバーチャル像が混在し、相互にリンクしつつ、ある条件下である像がリアルとして認識される。そのリアルは空間的・時間的に変化していく。
 「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」や「マトリックス」の世界は、このモデルだろう。
 リアルは条件次第で、別のリアル、別のバーチャルと入れ替わる。リアルは常に不確定で、無数にある世界観と相互に影響し合う。
 サイバーパンクとして書かれたSFは、こうした新しい世界観を描き出した。私もその洗礼を受けた口だが、今では多くの作品が当たり前のようにサイバー的な世界を登場させている。

 そんな書評があったので、参考までに。
4Gamer.net 連載「ゲーマーのための読書案内」第14回:『クローム襲撃』
 『クローム襲撃』の中でとくに注目したいのは「記憶屋ジョニィ」(1981年。のちに「JM」として映画化)である。この作品はサイバーパンク世界を作るさまざまなモチーフにあふれているが,とりわけ重要なのはヒロインであるミラーシェードの女・モリィと,主人公を狙う殺し屋との決闘シーンだ。

 短編なのでストーリーに踏み込んだ説明は避けるが,最終的にこの決闘は,テクノロジーであったり,筋肉の量であったり,テクニックであったり,用意周到さであったりといった一般的な価値の差によって決着しない。ましてやサイバーパンク的ギミックの差など,一顧だにされない。
 この決闘の明暗を分けるのは,誤解を恐れずに言えば,アートであった。より芸術的であったほうが生き残り,自らの芸術性の限界を見せつけられた者は死を選ぶほかなかったのだ。
 世界を変える,あるいは世界の根底となっているのは,テクノロジーではなくアートなのだという主張は,これ以降の作品にも引き継がれていく。ギブスンのサイバーパンクにおいて,あらゆるギミックはその本人のアートを表現する手段であり,アートを表現することこそが生きることの本質として描かれる。

 ここでいう「アート」とは、人間の想像力でありバーチャル能力だろう。
 ふと、マイケル・ジャクソンの名曲「Beat It」のビデオクリップで、ダンスによって戦うというのを思い出した。まさに、あのイメージだ。

 4つのモデルを考えてみたが、どれか1つが正しいというものではない。
 こうして考えてみると、リアルとバーチャルの関係は、「脳とはなにか?」ということであり、図を描いてみて感じたことは、そのイメージが「宇宙論」にも似ているということだ。

 リアルとバーチャルの一番の相違、あるいはバーチャルをバーチャルと感じる因子はなにか?
 それは「ノイズ」だろう。
 リアルにノイズが入ると、その程度によってバーチャルに変容する。
 ノイズとは、雑音であり情報の欠落のこと。
 映画ではシーンを区切り、視点を切り替えていくことで、途中を省略する。つまり、本来あるべきはずの情報をあえて欠落させている。その欠落を観客が想像で埋めるのだ。物語の空間と時間を圧縮し、前後関係をバラバラにし、ノイズを加えていくことで、カメラが写すリアルをバーチャルへと変換する。
 絵画では、絵の具と筆によって、ある情景を主観的に描く。筆致は画像のピクセルであり、リアルに描いていても実物に比べればノイズが多い。そこにアートが生まれる。
 小説では文字という間接的なデジタルで描写するため、意味を理解し想像力を駆使しなければ、イメージが生まれない。これも情報の欠落によって生まれるバーチャルだ。
 情報の欠落が極限までなくなると……ノイズのない世界では、バーチャルはリアルとして感じられる。「マトリックス」のネオが、仮想世界の日常をリアルだと思っていたのは、ノイズが極めて少ない世界だったからだ。そこにモーフィアスという外部からのノイズが入ることで、バーチャルであることを認識していく。

 日常の現実でも、ノイズや情報の欠落は発生している。
 勘違い、物忘れ、見間違い、空耳……等々。脳は優れた器官ではあるが、ノイズやエラーはつきものだ。脳はリアルとバーチャルの間を行ったり来たりしているともいえる。
 それでも、この世界がリアルだと断言できるのはなぜだろうか?
 なかなか難しい問題だと思う。

(06:39)

2007年08月20日

 著作権に関する誤解、問題は少なくない。
 地上デジタル放送での、コピーワンス問題もそれに関するものだ。
 以下のブロガーの認識も、大きな勘違いがある。
小説家は死ぬと本が売れなくなる、絵描きは死なないと絵の価値が上がらない - Coffee Break
『小説家は死ぬと本が売れなくなる』というのは、「生きているときは死んだ後より本が売れる可能性がある」ということでしょうか。まあ、売れない本は生きているときも死んでからも売れないのであくまで可能性ですが。一方、『絵描きは死なないと絵の価値が上がらない』というのは、売れたとしても生きているうちはまた新たな絵が創作されてくるので安いよ〜ということでしょうか。何となく、アーティストは、生きているうちは、あんまりお金入ってこないよ〜と言っているように聞こえます。まあ、これが事実なのかどうなのかはアーティストではないので、正直わかりませんが、昔の画家、作曲家、小説家で今は有名な方の中に、本人は貧困な生活をおくっていたという話があるようなので、ある程度は事実なんでしょうね。

これは、当時、著作権がなかったから貧困な生活をおくったのであって、著作権がある画家、作曲家、小説家は貧困な生活をおくらなくても大丈夫ということなのでしょうか?おそらく、著作権は本当に偉大なるアーティスト(?)の生活の向上にはあまり寄与しないでしょうね。昔、本人が生きている頃はあまり評価されず、なくなってから評価された場合があるように、現在もそういったケースが多いでしょうからね。

 この記事の著者の勘違いは、「著作権」が「収益(売り上げ)を保障している」という点だ。

 著作権は、収益を保障している権利ではない。

 あらゆる著作物には、著作権がある。
 前述の勘違い記事にも著作権があるし、私が書いているこの記事にも著作権がある。
 それは著作物と著作した人の、基本的な権利を保障しているだけなのだ。
 収益が発生するかどうかは、それを市場に出す出版社や販売元との個別の契約に依存する。
 その契約の根拠となるのが著作権である。

 有名作家であろうが、新人作家であろうが、出版物を出すときには、出版社とその報酬について契約する。売れるかどうかは、その作品に市場価値がどれだけあるかによって決まる。著作権は、その作品が著作者のものであるという基本的な権利を保障しているのだ。

 ある画家が、生存中は不遇で、死後に評価されて作品が高値で売買されるというのは、著作権とは関係ない。
 ゴッホ(1853 - 1890年)などが好例だが、ゴッホの活躍した時代には著作権などは存在しなかった。
 最初の著作権の原型が誕生したのは、1887年。
 ゴッホの絵が近年高値で売買されているのは、コレクターが価値をつり上げているのであって、著作権とは無縁だ。

 著作権があっても、作品が売れなければ、作家やアーティストは貧乏なのだ。
 それは市場のニーズに左右される。

 また、記事中で例に出されていた、ムソルグスキーの「展覧会の絵」については、作曲されたのは1874年であり、ムソルグスキーは1881年没で法的な著作権は存在しなかった。
 同作品を編曲したラヴェルは、1922年にラヴェル版を出した。ムソルグスキーの没後、48年後のことだ。現在の著作権法に照らし合わせれば、死後50年は権利が保障されているので、権利を有する親族などに対価を支払う必要がある。しかしながら、著作権の考えが浸透していない時期でもあり、実際はどうだったのかは定かではない。
 したがって、ラヴェル版が著作権侵害に当たるのかどうかは、判断しようがない。

 記事は最後に、
そう考えていくと、著作権団体の主張って、アーティストを守るためとかではなく、昔の仕事で儲かっている人がその儲け口を減らさないためあるように思えてくるのですが本当のところはどうなのでしょう?

 と書いているが、とんでもない誤解である。
 著作権と儲けることとは、関係ない話なのだ。
 売れない作品は売れないし、売れる作品は時代を超えても売れる。
 著作権は著作者の権利を保障しているのであって、儲かることを保障しているわけではないのだ。

(12:53)

2007年07月17日

 久しぶりの書き込み(^_^;

 ハリー・ポッターは、いろんな意味で「現象」を起こしているね。
 著作がバカ売れして、映画も大ヒット。
 しかも、著者はこのシリーズが唯一の作品。処女作にして、最後の作品になるかもしれない。
 当初、ローリングがこの作品を売り込みに回ったとき、どこの出版社にも断れたというのは、いまや嘘のような話。
 そして、日本語版を出版したのも、大手の出版社ではなかった。
 異例づくしで、驚異的な大ヒットになった作品としては、後にも先にもこれが最初で最後だろう。
 と、関連して……
小説ハリー・ポッター最終巻発売目前、ハリーの運命やいかに 国際ニュース : AFPBB News
前作の第6巻はこれまでに64か国語に翻訳され、世界中で合計3億2500万冊を売り上げた。また映画最新作『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団(Harry Potter and the Order of the Phoenix)』は前週、過去最高の興行収入を記録した。フロリダ、オーランド(Orlando)のテーマパーク「ハリーポッターの魔法の世界(The Wizarding World of Harry Potter)」は2009年の終わり頃のオープンを予定している。

1997年の初版『ハリー・ポッターと賢者の石(Harry Potter and the Philosopher's Stone)』から合わせて、ローリングさんは1億円の収入を得ていると予想され、最終巻はこの記録さえ上回るとみられている。

 この記事、書き方が悪いのか、計算が合わない。
 「合計3億2500万冊を売り上げた」というのに、「1億円の収入を得ている」じゃ、おかしいだろう?
 ドルの間違いか?
 いずれにしても、大ベストセラーには違いない。

(13:17)

2007年03月06日

 ファンタジー好きの人は、ハードSFが苦手。逆に、ハードSFファンは、ファンタジーが嫌い。
 ……などという、漠然とした感覚がある。
 たしかに、ファン層が違うのは確かなのだが。
 だが、私はどちらも好きだ。
 よくできたファンタジーは、じつに理路整然と世界が構築されていて、魔法ですらも一定の制約や法則の上に成り立っている。
 つまり、異世界を科学的な考え方で創造しているのだ。
 「指輪物語」(文庫 新版 )
が、その典型的な例だろう。
 で、それに関連した、科学のニュース。
「ホビット」を追って - CNET Japan
 遠いインドネシアの島で見つかった、身長3フィート(約0.9メートル)、1万8000年前の女性の人骨が、2003年の発見以来議論を巻き起こしているが、最近になってこの議論に関する、ある発表があった。

 人骨の発見者は、この化石がホモ・フローレシエンシスと呼ばれる新種に属すると提案している。指輪物語の熱狂的なファンは、現実に「ホビット」がいた可能性に熱狂中だ。しかし、疑り深い人たちは、この骨格は小頭症のホモ・サピエンスのものではないかと主張している。

 背の低い旧人類かもしれない種族に「ホビット」とは、なかなか気の利いたニックネームだ。
 だが、本当に人類とつながりのある種族なのかどうかはわからない。
 もしかしたら、異星人かも……と、思ったのは私だけではないだろう(^_^)
 いわゆる、グレイと呼ばれる異星人も、小柄で頭が小さい。なんとなく、そっちを想像してしまった。
 モルダーだったら、これは宇宙人の化石だ……といいそうだ。

 化石は過去の事実の断片を見せてくれるが、真相はなかなかわからない。
 足りない部分を、理論と実証、そして想像力で補うのが科学でもある。
 科学にも、ファンタジーの要素は必要なのだ。

 と、久しぶりの書き込み。
 仕事が忙しかったのさ。

(14:31)

2007年01月09日

 このニュースは、将来のコンピュータ産業にとって、深刻になるかもしれない。
asahi.com :日曜ナントカ学 - be on Sunday「金はなぜ金色なのか」
 世界の地下には約9万トンの金が眠る。このうち採算があうのは約4万2000トン。新たな鉱脈が見つからなければ、計算上は17年後には掘り尽くされるという。

 金(ゴールド)は、金銭的価値だけではなく、コンピュータ部品の主要な材料のひとつでもある。
 それが枯渇するとなると、社会や産業にとっても問題だろうね。
 もっとも、リサイクルで循環させていけば、今ある総量でも足りなくなることはないのかもしれない。

 ちなみに、金はどうやってできるかは、謎も多い。
 錬金術というのは、実際には実現しなかった試みで、ダイアモンドのように人工的に作り出すことはできない。
 太陽のような恒星の内部では、鉄までの元素が生成される。鉄よりも重い元素は、太陽ほどのエネルギーと重力があっても作り出せない。
 金は鉄よりもずっと重い元素であるから、太陽はもとより地球の内部でも生成されない。
 つまり、私たちが手に入れている金は、太陽系ができる前から、宇宙のチリの一部として漂っていたのだ。

 では、どこで金は誕生したのか?……というと、超新星爆発の、莫大なエネルギーの中で、鉄よりも重い元素は生成されたと考えられている。
 とはいえ、それも推測である。
 元素の周期表を見れば、金は原子番号79で、水銀が原子番号80だ。
 地殻中の含有量は、水銀の方がずっと多いので、水銀から金を作ればいいことになる。
 理屈の上では、水銀から原子を1個はずせば金になる。それが錬金術になるわけだが、それには莫大なエネルギーが必要だ。
 それを可能にするのが、超新星爆発ということになる。

 太陽系の惑星の組成を見ると、内側の惑星は固体で、外側に行くとガス惑星になる。重い物質が太陽の近くに集まったわけだ。
 ということは、地球よりも金星、金星よりも水星の方が重い物質が多いだろうと思われる。
 遠い未来、金星や水星に資源を求める時代になったら、金星と水星はゴールドラッシュになるのかもしれない。

 ……と、そういう背景で書いた作品が『ヴァージン・ヘルメス』なんだよね(^_^)。
 この作品は、次号のノベルエアーに掲載するかも。

(14:27)
 小説と出版の関連記事を2つ。
NIKKEI NET:企業 ニュース「若者向け書籍強化、小学館はイラスト付き小説」
 小学館やソニー・ピクチャーズエンタテインメントなどが10―20代を対象にした書籍事業を強化する。小学館が今春、イラスト付き小説「ライトノベル」に本格参入。ソニー・ピクチャーズは携帯電話を使って書いた小説で新人作家を発掘し、書籍化する。書籍市場の長期低迷が続くが、ファンタジーやSF、恋愛などを題材にした若者向け書籍はここ1、2年急成長して、3000万部市場ともいわれる。ネットや携帯電話に慣れた10―20代向けの書籍で市場を開拓する。

営業 連載企画:Biz-Plus「意外に古い出版社マーケティング」
 次に商品開発だが、独自の市場創造視点や体系的な商品開発プロセスを持つ出版社は少なく、刊行される書籍のテーマも、例えばビジネス書では多くの企業が「お金(お金儲けの方法や投資などの錬金術)」に集中し、出版社として発揮すべき独自の事業コンセプトや商品開発哲学が見えてこない企業も多い。

 ライトノベルが売れているとはいうものの、稼ぎ頭はアニメ化などの映像とセットになっているのが大半だろうと思う。あるいは、映像やゲームが先で、ノベライズしたものもライトノベルの中には含まれている。
 子どもたちの活字離れがいわれて久しい。私が中高生だったころから、そうしたことはいわれていた。
 当時(1970年代初期)はテレビゲームなどはなかったから、活字離れの犯人にされたのはテレビとマンガだった。
 それから30年あまり、ずっと活字離れが言われ続けている。
 だが、ベストセラーが少なくなったからと、活字離れとはならないだろう。
 それは売る側の論理で、読者の側の感覚とはかけ離れている。
 そのことを反映しているのが、後者の記事だ。

 金儲けの秘訣をオープンにしたら、その時点で秘訣ではなくなる。
 自己矛盾なのだ。
 その本が100万部売れたら、100万人の金持ちができるかというと、そんなことは現実的にはありえない。
 結局、儲かっているのは、本の著者だけだという、笑い話。
 本だけではなく、その手の詐欺まがい商法も少なくない。

 ライトノベルは、その名前が示すように、とにかく「軽い」(^_^)
 1冊の単行本でも、同程度のページ数の翻訳物の単行本と比べたら、文字数は半分かそれ以下だろう。
 ここまでスカスカに軽くしてもいいのか?……と思ってしまうほどだ。
 だが、それは小説という固定観念があるからだ。
 ライトノベルを読む読者にとって、それは小説と言うより「物語」なのだ。
 文字だけで作られた物語であり、ひとつの手法にすぎない。
 アニメと連動していれば、キャラのイメージはできあがっているし、世界観もわかりやすい。小説では細かいな描写は省き、セリフとト書きだけのシナリオのような体裁でも、物語を楽しむことが可能となる。
 極端な話、コマ割りのないマンガなのだ。
 読者が欲しているのは、芸術的な文学ではなく、楽しめる物語なのだろう。

 アニメだけではなく、実写のテレビドラマが原作をマンガに求める傾向が強くなった。
 それはマンガに、魅力的な物語が多く、認知度も高いため、リスクが減るからだ。
 ライトノベルも似たような位置づけにある。
 ライトノベルからアニメへ。あるいは、アニメからライトノベルへと、連動することで市場が成り立っている。
 涼宮ハルヒの憂鬱
は、その典型的な例となっているようだ。


(10:50)

2006年10月05日

 いつの時代も、言葉はその時代で変化する。
 なにが正しいかは、どれだけ一般化し、使われ続けるか、による。
 廃れてしまえば、一過性のもので終わる。
 で、こんな記事。
小文字:10代女子に流行、難解・新表記 ネット時代の自己表現!?−家庭:MSN毎日インタラクティブ
 「ゎたしゎ、きょぅゎ部活がなぃの」「ぁたしゎ、中一です」−−。女子児童や女子中高生同士がやりとりする携帯メールやインターネットの掲示板で、一部の文字だけを小さく記す文章が目に付くようになった。「小文字」と言われ、どの文字を小さくするのか、独自のルールもあるらしい。子どもたちがキーボードを操るようになって登場したユニークなスタイルだが、「間違った書き方じゃないか」と眉(まゆ)をひそめる大人もいるようだ。

 なにが間違っているかは、なにを基準にするかによる。
 基準は「広辞苑」なのか?……というと、必ずしもそうでもない。
 ある漢字で、意味は似ているがどちらを使うか、迷うことがある。
 たとえば「言う・云う」「聞く・訊く」
 小説では頻繁に登場する単語だが、広辞苑では併記してあって曖昧だ。どちらを使っても厳密な間違いとはいえない。
 そういう場合には、類語辞典を参照するわけだが、類語辞典でも辞典によって使い分けは統一されていない。

 若い世代の日本語がおかしいと指摘されることが多いが、大人の文章でもおかしなことは少なくない。
 たとえば、ある業界特有の表現。
 保険業界のパンフレットを作っていると、送りがなのおかしな単語がいくつも出てくる。
 申し込み→「申込」
 繰り入れ→「繰入」
 払い込み→「払込」
 ……等々。これらは頻繁に出てくるものだが、送りがなを省略するケースは多い。
 また、「お金」「お申込」といった、尊敬語となる接頭語が、事務的な文章の中に交じっていて、違和感があったりする。
 さらには、「です。ます。」調の語尾と「である。」調の混在なども珍しくない。
 基本は無視され、業界特有のルールで書かれているのだ。
 これが正しい日本語なのだろうか?

 変な日本語と言えば、政治家の答弁も、あからさまにおかしい。
 安倍首相は教育問題を大きな政治課題に挙げていたが、当の本人の演説は、主旨がわかりにくく、曖昧で質問に明確に答えていない。その不誠実さ、不正確さは、教育問題の抱える本質に通じる。
 態度や主張をはっきりさせるというのは、教育の基本だと思うのだが。

(18:35)

2006年09月08日

 書こう書こうと思いつつも、なぜか後回しになってしまうアニメの話。
 私はけっこうアニメ好きだ(^_^)。
 マニアとかオタクというほど心酔しているわけではないが、面白いストーリーを見たいと思ったら、アニメか海外ドラマになってしまう。
 そんなアニメの中で「涼宮ハルヒの憂鬱」について、記事が出ていた。
 何の記事かと思えば、マーケティングに関することだった。
Yahoo!ニュース - ITmediaニュース - 「ハルヒ」「男前豆腐」に見る、ブログ時代のヒットの条件
 ハルヒは「作り込みが精密でクオリティが高かった」ため、ブロガーが好んで話題にした。例えば「バンドの演奏シーンで、ピックで弾いている場合と指で弾いている場合の音が違う」などといった細かい作り込みがなされているという。

 「涼宮ハルヒの憂鬱」は、放映中は欠かさず見ていた。
 シリーズとしての作り方も型破りで、時系列が放映順でつながっていなかった。いきなりわけのわからない話からスタートし、見ていくうちに前後がつながってくるという展開だった。
 そして、引用したバンドの演奏シーンだ。
 学園祭という学園ものでは外せないシチュエーションで、最高の見せ場になっていた。
 バンドや楽器の演奏シーンが出てくるアニメは多いが、ちゃんと楽器を弾いているアニメは少ない。古くは「母をたずねて三千里」で、老人がギターを弾くシーンで感動したことがある。アルペジオで弦を弾く指がちゃんと描かれていたからだ。
 ハルヒの演奏シーンは、感動どころか背筋がゾクゾクするほど興奮した。実写のシーンでも、これほど感動はしないだろうと思うくらいに、名場面だったのだ。
 この話の回だけは、DVDにして残してある。それだけ気に入ったからだ。
 ついでに、CDも買ってしまった(^_^;
涼宮ハルヒの詰合 ~TVアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」劇中歌集シングル~

 また、「涼宮ハルヒの憂鬱」は、SFとして見た場合には、最近いくつか見られるようになった「量子ネタ」になっていた。
 量子ネタとは、量子理論をミクロな世界だけではなくマクロな世界に適用するという、不確定性の世界を描いたものだ。

 同じ量子ネタとしては、「ノエイン〜もうひとりの君へ〜」が、傑出した出来映えだった。
ノエイン ~もうひとりの君へ~ 第1巻

 じつは、そうした量子ネタの物語は、NOVEL AIRのサイトで、リレー小説として書いた。
 タイトルは『ラスト・フォーティーン
 この小説を書き始めたのは、2001年11月3日で、リレー小説として連載された。主に私がストーリーをリードする形になっているので、大部分は私が書いている。
 連載が終わったのは、2002年7月8日だ。もう、4年前のことだ。
 現在でも読むことができるので、興味のある方は一読を。

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